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「九相詩絵巻」や松井冬子「浄相の持続」を観て想うこと

 毎日人間は、布団から起きるとご飯を食べ、排泄し、無意識の内に呼吸し、勉強や仕事をこなし、遊び、家に帰るとまた食べ、身体を洗い、布団に戻る。同じ日は決してないにしても、基本的には人間は毎日同じ生活行動を繰り返している。当たり前のようなその生活に死の影は微塵もないように見えるし、明日も同じ朝が来ると人は思っている。いや、思い込んでいる。

 しかし、生は常に死と隣り合わせで、いつまでも元気なままではいかない。突然病気や事故や事件、災害などで命を落とす可能性は誰にでも有る。生きるというのは必ず死ぬということだし、究極を言うと死ぬために私たち生き物は生まれてきたのだと言ってしまえるかもしれない。

 そして、どんなに着飾り化粧をして上っ面は上品にめかし込んでいても、結局は人間という一動物であり、排便はするし屁はこくし、どんな器量良しであれ不細工であれ、皮を剥げば中身は皆変わない。死ねば体は腐り、いずれは骸骨となり土に帰っていく。

 私が思うのは、生きているもの全ては、いつまでも同じではいられないということ、死はごく身近な存在であるということ、そして人は死ねばただの肉の塊だということである。

 それは「九相詩絵巻」の鳥獣に食い荒らされる絵を見てさらに強く思った。ここに描かれている死体のモデルは、天皇の妃だったというが、死ねば身分など関係なく、それを食う鳥獣にとってはただの食料にすぎない。

 この絵を見て、生々しいグロテスクな絵だと嫌悪感を感じる人も多いはずだ。しかしその生々しさは、かつて生きていた者でしか出せない。今の世の中では死体を鳥獣に食わせることはほとんどないと思うが、こうして肉体が腐り土に還る死に方こそ、自然の中の一動物としては本当の死に方ではないか私には思わせられた。

 生きているということは、本当は醜い。どんな快適な生活にも、外せない汚い部分が絶対にある。どんなに身体をフランス人形のように作り替えても、生きる限りは人間という「動物」を生きなければいけない。しかしその醜さ、汚さを受け入れ、共に歩もうと模索する姿は、きっと美しいに違いない。

 松井冬子の「浄相の持続」という絵も、そういうことを表しているのではないか。内臓というのはグロテスクで醜い反面美しさを持っていると思う。緻密で繊細な仕組みは、人間が作ったどんなにハイテクな機械システムにも決して劣らないだろう。

 松井冬子の描く死体は、きっとそんな皮膚の裏側にある内臓の美しき醜さを私達に見て知ってもらいたいために、わざわざ腹を切り裂き、こちらに提示してくれているように私には思える。

 美しさと醜さとは、まさに表裏一体なのである。

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