【迷走ノート】白の闇ー白ゴスの世界ー
今年も実家の庭に、深紅に染まった薔薇が一本、孤高に咲いた。この薔薇は冬の間、重い雪の下で黙って辛抱しているのだが、6月の下旬くらいに蕾から少しずつ花開く。その様子を花好きの母はよく観察していて、咲いた時には私に嬉しそうに教えてくれる。
ルイス・キャロル原作の「不思議の国のアリス」では、白薔薇をハートの女王のために赤いペンキで塗り替えるシーンが描かれているが、何故なのか。これについては、15世紀イギリスの「薔薇戦争」といった争いが背景にあるのでは、という考察がある。白薔薇がシンボルのヨーク家と、赤薔薇がシンボルのランカスター家との王位継承をめぐる戦いで、ランカスター家が勝利して赤薔薇が国花となった、という出来事だ。
イギリスは、イングランド、ウェ―ルズ、スコットランド、北アイルランドの四つの国から成る連合王国で、それぞれの地域は「country」と呼ばれ、独自の国花を持っている。それとは別に、連合王国の国花が「薔薇」である。スコットランドはアザミ、アイルランドは三つ葉のクローバー、ウェールズは水仙、そしてイングランドは赤薔薇が国花となっており、ラグビーイングランド代表のエンブレムと愛称も「赤い薔薇」だ。
赤薔薇の花言葉は「告白」「愛情」「愛しています」などだそうで、本数によっても意味が変わる(基本的には良い意味だが、15本には「ごめんなさい」、16本には「不安な愛」、17本には「絶望的な愛」といったマイナスな意味もある)。赤薔薇は、まさに「愛」を示す花として代表的な存在である。
では、白薔薇の花言葉はどうかというと「純潔」「深い尊敬」「相思相愛」などがある。枯れた状態にも意味があり「生涯を誓う」というのだから、どこまでも誠実な印象だ。ただし、折れた白薔薇には「純潔を失い、死を望む」という花言葉がある。一気に白薔薇が、怖いイメージに変わるようだ。
薔薇に潜む怖い花言葉は他にも、黒赤色の薔薇だと「死ぬまで憎みます」「憎悪」「恨み」、赤に白班の薔薇だと「戦争」「争い」などの意味があるそう。またトルコのハルフェティという村でのみ生息する非常に珍しい黒薔薇だと「永遠の愛情」「憎しみ」「永遠の死」「決して滅びることのない愛」などの意味があり、少し病んだ愛を感じる花言葉を持つ。
薔薇には他にも様々な色があり、それに合わせて花言葉も様々なものがあるが、今回はその中でも白薔薇の「白」のイメージに注目したい。
そもそも、キリスト教を象徴する花ともいわれている薔薇は、赤薔薇だと「キリストの受難」を、白薔薇だと「聖母マリアの純潔」を意味している。キリスト教を代表する花は薔薇だけでなく、潜伏キリシタンが伝えてきた「マリア十五玄義図」には白い椿を持った聖母マリアが描かれている。また
白ユリもキリスト教では代表的な花で、ユリが聖母マリアの象徴として「マリアの花」と呼ばれていたり、宗教絵画、特に「受胎告知」などには白ユリが描かれていることが多々ある。
白はこのように宗教においても、実生活においても、「純潔」「美徳」のシンボル的な色である。だが白とは真逆の「悪魔の色」と忌み嫌われてきた黒が「ゴシック」の精神を表しているように、実は白もゴシックロリータファッションの世界では「白ゴス」として少なからず人気があるのはご存じだろうか?
白いゴシックというと、少し意外かもしれないが、何のことはない、白で統一されたスタイルの中に、ゴシックなモチーフを取り入れたジャンルのことである。黒ゴスよりも清楚な印象があり、より神秘的で高貴な雰囲気をまとっている感覚だ。ヴィジュアル系バンド・マリスミゼルの元メンバー
であるManaが立ち上げたゴシックファッションブランド・Moi-même-Moitiéなどでも、白を基調とした白ゴススタイルのコーデは多い。
白ゴスは服装だけではない。白塗りスタイルといって、顔をドーランで真っ白に塗りたくったスタイルを通している人もいる。日本人では、白塗りアーティスト兼デザイナーのminoriさんがその代表格だと思うが、他にもゴシックイベントのDJや、表現者、ミュージシャンの中にも白塗りをしている人は多い。
ちなみにminoriさんが朝のTV番組の原宿特集で何故白塗りをしているのかを聞かれた際には「ヴィンテージや個性の強いものが好きで、顔もそれに合うようにしたかったから」などのようにTVで答えていた(記憶が曖昧でニュアンスが違っていたら申し訳ない)。
また白塗りとは直接関係ないが、ある若手男性芸術家が自分の性器を切り取り、それを自身で切り分けて調理し、料理として数名の客に振舞うという、あまりにもイカれた、犯罪スレスレのカニバリズムイベントがかつて日本で開かれたことがあった。その男性は胸も切り取りたいと言っていて、将来は全身に白いタトゥーを入れて自身を真っ白なキャンバスにしたい、と語っていたという。白塗りの範疇を遥かに超えた域だが、彼の現在がわずかながら気になるところではある。
白塗りの起源は、かなり昔に遡らなければならない。そもそも化粧の文化とも繋がっているので、書くと内容が壮大になってしまうほどである。日本では平安時代、高貴な身分の女性が顔に白粉を塗り、歯はお歯黒にしていた。歌舞伎役者の白塗りメイクは今も続いているし、京都で活動する舞妓さんも同じだ。
また、今の日本でも肌が美白であることは、女性の美しさのステータスとして欠かせなく、どの美容・化粧ブランドでも美白効果を謳い文句にした商品が人気であり続けている(一時期ガングロギャルやヤマンバギャルなど黒っぽく顔を塗りたくったメイクが流行ったのだが、あれはあれで面白かった。またリトル・マーメイドの実写版ではアリエルに黒人の女優さんが起用されたが、もはや肌の色問題は現代人にとって早々に克服すべき事項であろう)
西洋でも白塗りの文化があり、中世の貴族の白塗りは有名だ。特に思い出せるのは、エリマキトカゲのようなつけ衿をつけたエリザベス一世である。彼女は顔に蜜蝋を塗った後に白粉を叩いていたという。戴冠式などの公式行事ではこのメイクを好んでしていたらしく、やがて貴族の間に流行したそうだ。ただしこのメイクは熱さに弱かったり、この時代の白粉には鉛白が含まれ皮膚にシミができやすいなど、難点もあった。ちなみにこのシミを隠していたのが、つけぼくろだったという。
16世紀には水銀を使った白粉が流行した。皮膚が剥がれ吹き出物が取れると人気だったが、その反面、水銀中毒により歯茎が黒ずんで、歯が抜けるという代償を払わなければならなかった。この頃、扇子が流行したのはこの歯抜けた口を隠すためだったそうだ。
ていうか、貴族間で何かが流行すると、それに含まれる問題を消すための新たな流行が必ず発生しているよな・・・(ベルサイユ宮殿でう●この匂い消すために香水流行ったり)。
そんな白塗り文化が何故現代でもファッション表現として繋がっているのかというと、一つには音楽シーンでの影響が大きいのでは、と思う。
白塗りメイクは「コープス・ペイント」とも呼ばれている。このコープス・ペイントが最初に一般的に用いられるようになったのは、ノルウェーのブラックメタルバンド・メイヘムのデッドという人物の存在が大きく、1986年頃から行っていたらしい。1973年にアメリカで結成されたハードロックバンド「KISS」もコープスペイントをトレードマークにしている。
白はそういったコープス=死体や幽霊、骨など「死」を連想させる闇の部分も併せ持つ。日本のホラー映画の金字塔「呪怨」でも全身白塗りの悪霊の男の子が登場するし、日本での一般的な幽霊のイメージといったら、大抵長い黒髪に真っ白な着物やロングドレスだ。
清楚なイメージのまま、怖い印象を掻き立てる効果も白にはある。トラウマ映画として名高いミッドサマーでも、白い民族衣装を着た民族の集落が舞台だ。白く純水で清らかなイメージの中行なわれる異常すぎる慣習は、余計肌寒い怖さがある(アメリカの白人至上主義団体KKKも全身白いローブに白い三角の頭巾を被っている)。ミッドサマーは白夜のことで、夜でも昼のように明るい奇妙な状況は、純粋で潔癖で、ある意味夜の暗さよりも怖いかもしれない。
純粋が故の恐ろしさもある。ジブリ映画かぐや姫の物語で、かぐや姫が最後月に連れ去られるシーンのBGMである天人の音楽が私には思い起こされる。一見明るく楽しい印象の曲なのだが、実はこの曲には低音が存在しない。そのため、喜怒哀楽の怒だけが抜けたような、どこか感情の欠落した曲に聴こえるので、何となく寒気がするのだ。監督の高畑勲は音楽担当の久石譲に「感情のない曲を作ってくれ」と頼んだそうである。その要望を見事にやりのけた久石譲はまさに天才としか言いようがない。
白でもゴシック的な精神が生きることができるのは、恐らくそうした清らかさ故の残酷さが見え隠れした色だからではないだろうか。丁度、純粋無垢な子供がある意味残酷なように、汚れのない白の処女性にはそういった闇が潜んでいるのだと思う。
影があるからこそ光があるように、光にも影が必要なのだ。一時期、となりのトトロでメイやサツキに影が描かれていないという都市伝説がネットの掲示板などで流行したが(ジブリ側は否定している)、今敏監督の妄想代理人というアニメでも、ある話で途中からキャラ達に影が描かれていないという演出があり(キャラ達は実は途中で自殺している)、とても秀逸な作品に仕上がっていた。
強い光には濃い影が隣り合わせで支えるように、白ゴスの世界にも暗いながらも明るい闇が存在している。
また違う角度だが、ゴミ一つ落ちておらず、一切のネガティブ要素を捨てた明るすぎる街で、皆が一様に笑顔を貼り付け、ロボットのように一寸の狂いのない楽しげなダンスを踊るような光景に悪寒を得るように。ちょうど、国家に悪影響を与えるものは徹底排除し、国を崇めるようなことのみ許した潔癖すぎる法律に恐怖心を抱くように(ジョージ・オーウェルの1984の世界のような)。
暗い光か、明るい闇か。どちらを選ぶかは、人それぞれの心の向きに委ねられている。
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