男として女として人として
最近、「男〇〇として・・・」という記者会見をした方がいましたね。いまだにそういうことを言う方っているんですね。若者の中にも。他にも引っかかった言葉や内容はたくさんありましたが、わたしはその方のことをよく存じ上げないので割愛。「男として」「女として」という言葉を使うのは現代の社会風潮にはあまりそぐわないですね。
もう一つだけ。「不要不急」、間違っちゃったね。「不要不急ではない用事だった」んだね。そこ、ちょっと耳がぴくりと動いてしまいました。まあ、いいか。この言葉、一瞬惑います。わかるわかる。
なんだ、わたし会見見てるじゃないの(笑)
「男〇〇として・・・」という言葉を聞いた時に、「女々しい」「女の腐ったような」というのと同じようなにおいを感じてしまった私。いや、彼がそう、と言っているのではなく、言葉の使い方の温度感と言いますか・・・。
男女のことですが、生物学的に明らかに男女の体の違いはありますが、優劣は全くありません。役割があるだけです。なので「男として」「女として」という概念は、社会や言葉をもった人間特有のものです。そもそも「概念」が人間特有です。
さらに人間には「心」があるので、そう簡単に男だ女だとわけられない事実もあります。
「女々しい」「女の腐ったような」という言葉は、おそらく男性は「強くあらねばならない」という概念、そして男性優位の概念から生まれた言葉です。
男の人も、大変だね・・・。と、たまに思います。
この言葉は絶対に女性には使いません。フェミニズムではありませんが、こういう言葉が残っている限り、社会通念はなかなか消えないでしょう。
何を隠そう、私の中にもまだそういう考え方が残っています。泣き虫だった息子を見て「女々しいなあ」と思うことが何回もありました。
逆に、娘はほとんど泣かなかったんです。泣くときは、歯を食いしばってぽろぽろと涙だけ流す。明らかに娘の方が強かった。
あ、そうか。これは、特性だ。
母であるわたしは、息子以上に泣き虫でした。息子は男の子なのに泣いていたわけでも、男の子だから泣いていたわけでも、女々しいから泣いていたわけでもない。わたしの特性を遺伝したんですよ。
泣けばいいじゃないか、と思いました。全部が弱いわけじゃないんだ。
そもそも、強い弱いってなに?自分のことをよーく見てみて。強い弱いの二択しかない人間なんて、この世におるんですかい?
みんなそんなに変わらないと思う。強さも弱さもみんな同じように持っていて、弱い部分は優しさを備えていつか強いものになるし、強さは優しさを備えて初めて通用する特性です。
人って、どれだけ作られた常識の中で、考え方を作ってきたんでしょうね。そして、その考え方を外すことのむずかしさと言ったら!
ただいま、わたしの大事な大事な友達が、「職人のくせに」とか「女のくせに調子に乗りやがって」という罵声をお客さんから浴びせられてからの帰宅途中です。彼女が帰宅したら、わたしは彼女以上に暴れて怒って泣こうと思います。
そんなことで、彼女に涙は流させない。もったいない。「あの言葉があったから、くやしくて頑張った」なんて言わせないから。
ん?どういうこと?と思いますか?
いつか、ここもテーマにします。悔しい気持ちを感謝の言葉に変えることについて。
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