『生誕130年記念 北川民次 メキシコから日本へ』展を見てきました

北川民次という画家がいる。わたしは彼の作品が好きだ。
瀬戸信用金庫のアートギャラリーが入れ替えに合わせて、何度か瀬戸にも足を運んだことがある。


本年は北川民次の生誕130年記念。名古屋市美術館で大規模な回顧展が行われるというのは知っていたけれど、なぜだか秋と勘違いしていた。
6月末から行われていた展覧会に気がついたのは最終週の水曜日。前の週、流行病で寝込んでいたわたしの手にはいただいた映画のチケットもある。
美術館も映画館もなんてわたしの脳のキャパシティが追いつかないんじゃないかと危惧されたが、背に腹はかえられない。幸いなことに美術館と映画館が近かったので、移動には不自由せずはしごすることにする。
この選択、2024年個人行動MVPではないかというくらい大満足であった。


今回の展覧会は通常の名古屋市美術館で行われる特別展同様一階と二階、さらには地階も一部利用していた。その展示作品ほとんど全てが北川民次。
ここまで一堂に介しているのを見るのは流石に初めてだったので圧倒されてしまった。前を行く初老の男性二人組が「これはすごい、30年に一度だけのことはある」「次の回顧展に自分たちはこれないだろう」とおっしゃっていたので気がついたが、わたしとて次が十分な体調で見られるかは年齢的に不安を残すところである。
やはり、見れる時に見れるものを見れるだけ見ておくが鉄則である。

1番の見所はやはり、名古屋市美術館像の『トラルパム霊園のお祭り』。
常設展で何度かお目にかかったことはあったが、大抵ガラスケースの中に入っているのでいつもはそこまで近づいてみることができない。
それがケースなしで、ガラスもなしである。
生と死とを1枚の絵画に表現した北川民次らしい作品。奇しくも前の週、ディズニーピクサーの『リメンバー・ミー』を見てポロポロ泣いていたからか、いつもより余計にメキシコの生死感が心に沁みる。

『降霊術』も見逃せない。
北川が避暑地で芸術家仲間と見た降霊術が実に素直な視線で再現されている本作。本当に胡散臭いと思ったし、本当に感心したことが伺える。
所蔵は刈谷美術館と聞いて大納得。あの美術館のキュレーションセンスにはいつもいつも驚かされる。

途中、戦前戦中交流のあったわたしの大好きな藤田嗣治の描いた北川民次の肖像も2枚展示されていた。
1933年の水彩の作品はフジタのスタイルで描かれていて、1937年の油彩の作品は明らかに北川民次の作風を真似ている。それもかなり適当に。
キャプションには「戯画的表現を好まなかったのかもしれない」とあったけれど、この2枚を単純に美醜で捉えたとして、2枚目の方を自画像として使っていきたい!と思う人はかなり少ないだろう。
作品の意味理由から考えても善意は感じにくい。
藤田嗣治の自画像や肖像画は丁寧な静物画の中心に人物を描くことでその本質を映し出す。そんな画家が描いた「北川風」の、なんの練り込みもない、言ってしまえば猿真似のような作品を見て、気分を害さないわけがないと思うのだけれど。
2人の仲を裂いたのは戦争であることは間違いないけれども、そうでなくても喧嘩別れしていたかもな。


常設展は芥川(間所)沙織の生誕100年記念を中心に、北川民治にまつわるメキシコの作品。こちらは北川がメキシコで教えた作家の作品もあった。
エコール・ド・パリのコーナーはシャガールの聖書の挿絵。


1年くらい前から、名古屋市美術館を訪れるたびに常設のアンゼルム・キーファーの『シベリアの王女』からなんとなく目を背けてしまう。背景にあるのは戦争である。
よいも悪いも感じたくないんだろうな、と思う。
これが戦争か。


北川民次回顧展は世田谷美術館(できることならあの素敵な会場でも作品を見てみたいところ)、郡山市立美術館と巡回の予定。
お住まいがお近くの際は、ぜひ見ていただきたい展覧会でした。

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ida
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