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アメリカ留学を振り返ってー思い出の恩師たちMemorable Teachers 1968(1-1)

表紙写真 1968年4月ルイジアナ州Baton Rouge (筆者撮影)


はじめに

筆者は、24歳の誕生日を迎えた直後の1968年3月から、34歳の誕生日を迎えた1978年3月までの10年をアメリカ留学に費やしました。様々な場所で様々な人たちと出会い多くのことを学びました。昔々まだ日本が発展途上国であった時の話ですが、授業料高騰や治安問題で日本人留学生は激減している現在、もっともっと厳しい状況下でアメリカ留学に踏み切った筆者ら当時の留学生の体験記は参考になると思います。

1968年から1978年を1年ごとにまずは大きく(1)~(10)に分け、それぞれ更に分割してお届けします。アメリカ各地を転々としながら食い繋ぎ、無事、言語学(英語分析)で博士号(Ph.D.)を取得するまでの一大冒険記です。

今回から(1ー1)(1-2)(1-3)の3回に分け、渡米する前年度1967年秋から1968年2月の失敗だらけの渡米バタバタ準備劇と、見切り発車で渡米に踏み切った1968年3月から12月までの体験、その間お世話になった先生方を紹介します。


1968年全大学院英文科応募も却下されとりあえずEFL研修で渡米

筆者がアメリカ留学の準備を始めたのは1967年秋。Pennsylvania State University(Penn State)Louisiana State University(LSU)(*1)の大学院英語・英文学科にapplyしました。残念ながら、両大学院とも不合格でした。途方に暮れながらも渡米する他の手段を探さなければなりません。それでアメリカ文化センターに行き留学関係の資料を閲覧していると、“English Orientation Program at Louisiana State University”なる小冊子を目にしたのです。持ち帰って何度も読み返してみたものの、表現しようのない心許ない思いが込み上げてくるばかりです。とは言っても他に良い手立てはなく、結局、参加することにしたのです。1968年2月初旬のことでした。

すぐにアメリカ大使館で渡米手続きをし、1年間のstudent visaを取得できました。その先はどうなるのか皆目見当がつきません。当時の日本には厳しい外貨持ち出しの規制があり、半年分の資金500ドルを掻き集めたものの、その後の資金を調達する見込みは皆無でした。それよりも、LSU大学院の不合格通知(rejection letter)(*2)には「どこかの大学院に入学許可が出るまで渡米しないように」との文言が付されていたことが気になり脳裏から離れません。

ジャズの名曲に“Taking a chance on love”(恋にチャンスを)という恋を賭けに例えた曲がありますが、渡米することに賭けた当時の筆者の心境は、いわば、“Taking a chance on USA”でした。賭けも賭け、大賭けであることは百も承知でしたが、アメリカ留学に舵を切ってしまった気持ちは止めようもありません。その1ヶ月半後の1968年3月末にJapan Airlines(JAL)でHonoluluに降り立ち入国審査を受けてSan Franciscoに着きました。当時JALはここまで。



Jazzが好きでNew OrleansのあるLouisiana州のBaton Rougeに極度のハームシック

New Orleans jazzの熱烈ファンであった筆者は、New OrleansがあるLouisiana州に親しみを感じていました。LSUの大学院に応募したのもその為でしたが、いざ来てみるとアフリカ系アメリカ人をはじめ有色人種への激しい差別が渦巻きかなりの緊張を強いられる場所でした。市内のトイレは“White”と“Colored”に分けられていました(racial segregation)。(*5)第二次世界大戦終結からまだ20数年、また、激しくなりつつあったベトナム戦争の影響もありアジア人全体に対して根強い偏見を感じました。

華やかなNew OrleansからGreyhoundバスに乗って2時間ほど、LSUがあるBaton Rougeに着きました。州都でありながらなんともこじんまりした街。その晩はダウンタウンのホテルで長旅の疲れを癒しました。翌日LSUに向かおうとしとタクシーを拾おうとしたところ、筆者の顔を見るや白人運転手はそのまま立ち去って行きました。ショックです。それまでの旅行気分はすっかり失せ、今まで感じたことのない極度のホームシックに襲われました。ああ、日本でそのまま博士課程に進めばよかった!とんでもない決断をしてしまった!という後悔の念に打ち負かされそうになりました。(*6)


それ以前にもBaton Rougeに向かう旅路で立ち寄ったキャフェテリアや待合で簡単な英会話さえできない惨めな思いをしていました。しかしその時は日本での英語の勉強の限界を思い知ってアメリカで勉強しようという決意で乗り切りました。なのに、今回はそうはいきそうもありません。

今のように海外を行ったり来たりできる余裕などなく、年老いた両親とは今生の別れを覚悟で来てみたものの、それをあざ笑うかのようにつらい精神状態に陥ってしまいました。LSUに着くやキャンパスあちこちを歩きながら必死の様相で日本人を探し回っても見当たりません。諦めかけていた時に日本人らしき人を見かけ話しかけてみましたが、それは日本語を話せない日系三世の大学生でした。日本人学生は3名しかいないとのこと、その内2名の所在を教えてくれました。

藁をも掴む思いで、早速2人に連絡を取り、会いに行きました。筆者と同年輩の女性たちで、アメリカ人のフィアンセとともにあちこち案内してくれました。2人とも大変な苦労をされてきたようで、アメリカの深南部(Deep South)について全く無知な筆者にとても良いアドバイスをくれ、ホームシックもすっかりなくなりました。今でも感謝しています。(*7)



「アメリカ留学を振り返ってー思い出の恩師たちMemorable Teachers 1968」(1-2)に続く


(*1)Louisiana州の州都Baton Rougeにある州立大学.2000エーカー(約250万坪)の広大な敷地を持つ。100年以上の歴史を持つCollege of Agriculture(農学部)は有名。農学に関心がある読者は要チェック。世界中から米穀の研究者が集まり、筆者がいた頃には鹿児島大の研究者が共同研究に参加しておりました。
(*2)当時入国審査でアメリカ滞在中の所持金と胸部レントゲン写真の提示を求められました。
(*3)Kentucky Mountain Bible Collegeと称する神学校に知り合いがおり1週間ほど滞在しました。5ヶ月後の8月中旬から9月中旬までその寮に泊まりアメリカ人の神学生たちと農場で働きながら過ごさせてもらいました。自給自足で農耕、家の建築・修理、車の修理、床屋までなんでも器用にこなすアメリカ人の姿にアメリカの原点を見たような気がしました。これも良いオリエンテーションになりました。
(*4)本コラムで、New Orleans jazzに魅せられ、今でもその伝統を受け継いで大阪で活躍しているNew Orleans Rascalsを紹介しました。第26回第27回第28回第29回、1960年代初頭日本を訪れたclarinetの名手George Lewis(1900-1968)の影響を受けたグループです。筆者もGeorge Lewisに心酔し、生演奏を聞きたいと思いましたが、残念ながら同年病床につき逝去しました。“George Lewis Ragtime Jazzband of New Orleans”“George Lewis: Burgundy Street Blues”を聞いてください。後者は晩年日本に来た時に厚生年金ホールで行なった演奏と思われます。筆者が最初に聞いた曲は“Concert! Geo. Lewis And His New Orleans Stompers”というアルバムに収録されている“Ice Cream”でした。アイスクリーム屋さんぴったりの曲です。

(*5)Martin Luther King博士が生涯をかけて闘った“Jim Crow”laws(1980-1960s:)はまだ歴然と残っていました。
(*6)その2年前に慶應義塾大学の学部卒がそのまま慶応の大学院に行かず、早稲田大学の大学院に行ったことも当時としては前例が乏しく異例でした。そして、早稲田大学修士号修了時には博士課程に進むことが当然とされていた時代、イギリスならまだしもアメリカで英文学を学ぶことへの違和感が筆者のクラスメートからは漏れ伝わってきました。日本の博士課程に進まないと日本で教職を得るのは難しいと言われた時代で、筆者のことを案じて言ったのでしょう。
(*7)海外生活にはホームシックは付き物です。筆者の場合は着いてすぐ見舞われました。直前に滞在した場所に帰りたいという感情が強まりました。この時は日本へ、後にアメリカ国内を転々した時には直前にいた町への郷愁が募りました。孤立せずに積極的に外に出て話し相手を探して行動することです。

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