アメリカ留学を振り返ってーMemorable Teachers 1968(その1の2)分割バージョン
表紙写真は1968年4月ルイジアナ州Baton Rouge 筆者撮影
「アメリカ留学を振り返ってー思い出の恩師たちMemorable Teachers 1968」(1-1)の続き(1-2)です。
LSUにおけるEnglish Orientation Program
English Orientation Programが始まったのは、それから1週間後の4月中旬です。名目はアメリカの大学の学部や大学院への入学を目指す留学生のためのオリエンテーションということでしたが、入学合否の鍵はTOEFLのスコアであったので、TOEFLスコアを上げるためのプログラムと言ってよいでしょう。当時のTOEFLはペーパーテストで満点は670点前後で、学部入学に450~550点、大学院入学に600点以上というのが大体の相場でした。プログラムが始まる前日に受講者全員TOEFLテストを受け、そのスコアで上からAdvanced A、Advanced B、Intermediate A、Intermediate B、Elementary A、Elementary Bの6つのlevelsに振り分けられました。筆者は一番上のAdvanced Aに配属されました。
ここで、このEnglish Orientation ProgramはLSU本体とは直接関係ない機関が単に場所を借りて行っていることを知りました。(*8)受講者の大部分が、メキシコ湾を挟んだ近隣諸国のベネズエラ、コロンビア、ニカラグア、メキシコなどの中南米人、それに日本、台湾、韓国、香港、タイ、ベトナムなどのアジア人とトルコやイランなどの中近東の人です。日本人の受講生は筆者のほか2名でした。1年以上もこのプログラムに在籍しながらも、どこの大学からもadmissionが得られずにいる受講者が大半であることもこの時知りました。
筆者を案内してくれた上述の日本人学部生2名も日本の高等学校卒業後に渡米し、English Orientation Programを何回か繰り返し受講してTOEFLスコアを上げてLSUに学部入学できたそうです。そして、彼らと同じ時期にEnglish Orientation Programを始めた受講生の中には2年も3年も在籍しながらもスコアが上がらず問題になっていること、また、学部入学ができたとしても英語力不足でついていけずにdrop outする留学生が後を絶たないこと、彼女ら自身は美術史を専攻し卒業まであと1年というところまでかろうじて来れたことなど細々と語ってくれました。
LSU英文学科学科長に呼び出され赤字で添削された3通の推薦状を見て愕然とするも納得
LSU大学院の不合格通知に「どこかの大学院に合格するまで渡米しないように」と付した背景には、留学生のこうした現況を憂慮してのことであったと言えるでしょう。案の定、English Orientation Programが始まってしばらく経ったある日、筆者は英文学科長室に来るよう連絡を受けました。行ってみると、開口一番に出てきた言葉が、
“We’ve told you not to come here unless you get accepted to a graduate school (in USA).”
でした。筆者の前には筆者が書いた入学志望書(statement)と3通の推薦状(letters of recommendation/recommendation letters)(*9)が置かれていました。
筆者が書いた志望書は赤ペンで真っ赤になるまであちこちが添削されていました。それは想定内のことでショックを受けませんでしたが、想定外であったのは3通の推薦状に対する厳しいコメントです。1通は日本語で書かれており、残りの2通も筆者の志望書同様に英語も内容も真っ赤に直されていました。(*10)筆者はそれを見ながら、これでは入学が許可されるわけはない、と思い、同時に、問題の文言が付された理由が一層よく理解できました。
筆者は非常に冷静でした。というのは、この学科長の指摘が、筆者の頭の片隅に残っていた日本に帰って博士課程に進むという選択を雲散霧消させてくれたのです。吹っ切れました。よし、ネイティブの英文学者が見て遜色がない英文を書けるように精進し、アメリカでPh.D.(博士号)を取るまで絶対に帰らないぞ!という強い決意がふつふつと湧いてきました。渡米してよかったと確信できた瞬間です。
日本にいた時、「日本人は英語の聞き、話しは苦手であるが、読み、書きは得意である」などとよく耳にしていました。大間違いです。それは日本の英文和訳・和文英訳主体の授業を前提としたもので、アメリカの大学に来てみれば、聞き、話しは言うまでもなく、とりわけ、読み(量・スピード)、書き(スピード・量・質)においては、全く通用するレベルではないことがすぐ分かるのです。もちろん、日本人だけではなく他の非英語圏からの留学生にも当てはまることです。
よって、このEnglish Orientation Programにも(1)Reading(2)Grammar(3)Writing(4)Listening-Pronunciationなどの項目に関る4クラスが設けられ、(*11)月曜日から金曜日の毎日それぞれ1時間ずつのintensive courseとなっていました。言うまでもなく、筆者が特にこだわって力を注いだのはWritingクラスでした。アメリカの英語・英米文学の博士課程で求められるacademic writing skillの習得に向け、前向きに進むしかありません。
Writingクラス担当Mr. Miller、英文学博士論文への小さな一歩
Writingクラス担当のMr. Millerは、幸運にもLSU英語・英米文学科博士課程でアメリカ南部Mississippi州出身の戯曲家Tennessee Williams(*12)らについての博士論文を執筆している学者でした。(*13)Mr. Millerの授業は筆者の目的にどんぴしゃりと応えるものでした。多分にliterary criticism的手法を意識し、合理的で情緒とユーモアに富み、そのnaturalな性格も相まって巧みにwritingへの意欲を湧き起こしてくれました。毎回異なるテーマを巡りessayを書き提出します。先生がテーマにつき例を挙げながら自身の考えを述べ、テーマに符合する構成や表現の説明をし、そのあと全員でdiscussionし、最後にessayを書いて提出します。日本での和文英訳主体の英作文の授業と違い、英語で考えて英語で書かせるこの授業はとても新鮮でした。
筆者を含めて10名ほどの受講者は、筆者のみが英語・英文学専攻で、他の人たちはbusinessとengineeringなどの専攻でした。したがって、Mr. Millerは文学作品ではなく社会、文化、政治情勢などの一般的で分かりやすい例を取りあげていました。添削したessaysは翌日の授業で返されます。レポートを提出しても返された経験がない日本の大学とは大違い、どこが良くてどこが悪いのかすぐフィードバックされます。
今でも鮮明に覚えているのは、比較(comparison)対照(contrast)をテーマにした時に書いたessayで大変褒められたことです。筆者は日本文化の紹介を兼ね、当時の日本では非常に対照的であった慶應義塾大学と早稲田大学について書きました。慶応を卒業し、早稲田の大学院に行った時に味わった学風の違いによる心理的葛藤を綴ってみました。(*14)翌日の授業の冒頭で、Mr. Millerは筆者のessayを全員の前で読み、比較対照のessayとしてとても良いと評してくれました。
褒められたと言っても、ネイティブ、それも、英語英米文学を専攻する大学院生との比較ではなく、EFL/ESLの受講者との比較で良かっただけのことです。そんなことで満足している場合ではありません。授業終了後はMr. Millerと話すことを日課にしました。どうすれば自分の英語を大学院英語・英文学科で競争できるレベルにできるか執拗に聞きました。所詮EFL/ESLのクラスで書いたessaysですから、テーマも内容もアメリカの英語・英米文学科大学院レベルのリサーチ・ペーパーとは比較できるはずがありません。Mr. Millerの立場になればコメントしようがないだろうと思いつつ何度も何度も聞きました。
そうしたことが3ヶ月ほど続き、プログラムの終了が間近に迫ったある日、上述の学科長と面談した時のことを話してみました。Mr. Millerはニコッと笑い、
“Oh, you talked with Dr.〜. He is a linguist and happens to be a professor of mine. Don’t worry about what he said. You write well. I’m sure you will make it(= getting a Ph.D.)soon or later.”
と言い残して教室を後にしました。10年後の1978年3月、筆者はGeorgetown大学言語学博士課程にて言語学(英語学)でPh.D.を取得した瞬間、是非とも会ってお礼を言いたくなった先生の一人です。残念ながらその後の先生の消息がつかめずにそのままになってしまいました。日本の大学で職を得て英語writingクラスを担当することになった筆者はMr. Millerの教授法を参考にしました。また、baseballに興じるようになったのも多分にMr. Millerの影響です。
「アメリカ留学を振り返ってー思い出の恩師たちMemorable Teachers 1968」(1-3)に続きます。
(*8)アメリカの大学で行われている留学生のためのEnglish as a foreign(second)language(EFL/ESL)プログラムは大学本体とは直接関係のない機関によるものが多く、大学の正規のカリキュラムとはみなされないケースが殆どです。
(*9)アメリカには a letter of recommendation/a recommendation letterとa letter of reference/a reference letterがあり、前者はその人物のpositiveな事を書いて推薦するのに対し、後者は参考になるpositiveな事はもちろんnegativeな面も含めて評価するものです。アメリカの大学、大学院では後者がよく使われます。
(*10)その内の1通に至っては、筆者が書いたものに先生がサインだけというお粗末なものでした。当時よく見られた慣行で、直されて当然です。留学後教職に就いた筆者は、アメリカやイギリスの大学院への留学を希望した多くの学生の推薦状を書いてきましたが、かなりの時間をかけて入念に書かせてもらいました。
(*11)当時の資料が無いので正式のクラス名は分かりません。
(*12)Tennessee Williams(1911-1983)、代表作A Streetcar Named Desire(1947)は、New Orleansを舞台にした戯曲です。1951年Elia Kazanにより映画化され、Marlon BrandoとVivien Leighが演じています。筆者が留学中、色々な人との会話でよく出てきました。You Tubeで映画のクリップがあります。Listeningの練習にも良いので観てください。A Streetcar Named Desire (1/8) Movie CLIP – You Must Be Stanley (1951) HD
(*13)残念ながら、Mr. Millerのフルネームを記憶していません。30代で恰幅が良く、baseballが大好きで、筆者らと昼休みに校庭でbaseballに興じました。中南米の受講者にはとても上手な人がいて、Mr. Millerも負けず劣らずMLB仕様の硬球を投げたり打ったりしていた姿が忘れられません。
(*14)1960年代は各大学がそれぞれの特徴を保っていた最後の時期かもしれません。特に旧帝大系国立大学は伝統的校風を誇っていました。神宮球場の東京六大学野球の応援にはそれぞれの特徴が顕著に現れていました。野球の試合そのものもさることながら母校のカラーを誇る応援合戦も圧巻でした。早慶戦などは前夜から人が並び、球場は満員になりました。
For Lifelong English 生涯英語活動のススメ (鈴木佑治Website)