明るい場所(3 コンビニエンスストア)
江國香織の『泣く大人』というエッセイ集に「居場所がある、という気持ち」という一説がある。曰く、不良はあかりが好きだ。ファミリーレストランだとか、パーキングエリアだとかの、闇の中で、一つだけこうこうとさすあかり。
私は高校生の時に江國香織を読んでしまったので、その上、周りに尊敬すべき(尊敬すべき?とにかく、自分が大人になるにあたって指標となるような、という意味)大人の女性がいなかったものだから、当然彼女の思想をなぞるように今や立派な不良になった。
社会人になりたてのころに住んでいた部屋は、仙台駅から地下鉄で数駅離れた場所にあった。そうなると、田舎とまではいかないにせよ、夜になれば立派に閑静な場所だといえる。そんなだからスーパーマーケットなどは健康的な時間帯にしまってしまう。ゆえに、夜中に人恋しくなった時などは、必然、コンビニエンスストアに行くことになる。夜。空っぽの水槽みたいな部屋に一人でいると、架空の酸素循環器が止まって、息苦しくなるときがある。そういうときは決まって、アイスを買いに行くのがその解決策になった。真夜中に、そこだけ場違いみたいに明るいコンビニエンスストアに、アイスを買いに行く。そして食べる。それは小さな背徳を犯すことだった。『泣く大人』の教えにより不良として正しくあかりにおびき出されること。正しく生活している人間には必ずしも必要ではない嗜好品を口にするということ。私は、普段まともな人の服を着こなしていたけれど、その本質は不良だったから、多分時々その服を脱いで、不良に戻る必要があったのだと思う。
あるとき仕事のセミナーがあり、こんな話を聞いた。
簡単に言えばこうである。「人間は無意識に明るい方向に誘導される。だから、目的地になる場所に向かって明るくなるように空間をデザインするのがよい」と。
私は当時、空間デザインだとか、内装だとか、そのあたりの端っこに関わるような仕事をしていた。この話は、病院施設などで、利用者の導線をいかに分かりやすくデザインするか、という文脈だったような気がする。(ということは、いくつかの、或は、多くの公共施設などはこの理論に基づいてデザインされているはずだ。)
すぐにコンビニエンスストアに吸い寄せられる不良たちのことが思い出された。なんだ、彼らは、或は私たちは、別にどうしようもない欠落感や居場所を理由にしてたむろする必要なんてなかったのだ。この発見は、あらゆる人間と、街燈に群がる羽虫とがほとんど変わらないと断じるものであった。それか、あらゆる人間は欠落しているし、誰しもが本能で明るい場所を求めているだけなのかも、とも。逆に言えば、それは、人間が、私たちが、明るい場所-自分にとって必要な、生きていくのに正しい場所を探し当てる能力を予め持っているということの示唆である。羽虫たちが何を学ぶでもなく、蛍光灯に吸い寄せられるように。
それならば、たどり着いた場所が救いであり、正解なのかもしれない。