知らない人でい続けることは不可能か
私はここを自我の避難所として使用しています。
漫画を描くうえで、自分の感じた喜怒哀楽が作品のエッセンスである以上、私の自我そのものが今後の作品のネタバレになるためです。
匿名性とは
私は、新しいまっさらなSNSアカウントを作るとき、いつもワクワクしています。最近だと、タイッツーやブルースカイを始めました。
私のことを知らない場所で、誰でもない私の、どうでもいいことを、知らない人に見ていてほしいという感覚があります。
タイッツーも、普段も名前と全く違う名前で生息しています。
あそこはいいですね。PTL(パブリックタイムライン)という機能があり、フォローしているかしてないかやフォロワー数に関わらず、全ユーザーのつぶやきが新着順でどんどん流れてくる。あれは「私のことを知らないたくさんの人に私を見ててほしい」みたいな感情を満たしてくれる。
ところが、これはタイッツーは何も悪くないというか、本当に素晴らしい場所なのですが、私は気づいてしまったのです。
「もしかして、言葉が集まると人格が生まれる…?」
知らない人で居続けるには常に初対面でなくてはいけない。
10年以上前は、顔と本名がわからなければ「匿名」でした。
Twitterは匿名性が高いとか言われてました。
ところがどっこい、私は、その「匿名」(仮にMとする)で自分の思い(私はクィアなので、同性との恋愛に関わること、友達、恋人、家族の定義やそこに人それぞれ発生する優先順位について考えること)を、漫画としてSNSに描いて載せていて、気づきました。
もう、これは「M」としての人格で、気づけば私は脱サラし、「M」がペンネームになりました。もうインターネット上の私は「M」が本体なのです。そして、私「M」のことを見てくれるファンにとって、Mにはこんな発信してほしい、Mにはこういう発言してほしくない、Mという一貫した人物像になっていく。
これは発信するものが漫画でなくても、文章でも同じですよね。
nuとしてここで、知らない人に私のことを見ていてほしい、でも、言葉が集まれば、nuもいずれは人格になってしまう。
というかこんな長文打ってたら、そんなの自我でこのアカウントの人格形成されまくりなんですが。
誰も知らない人でありたい、でも、見ててほしい。
10年前のTwitterはそうだったのかも。
インターネットで仕事してるから、数回以上目に触れる存在である以上匿名なんて概念はないのかも。
匿名とは、一期一会であること
なのかもしれないですね。
だとすればやっぱり、タイッツーって最強のSNSか…?
繋がらないSNS、「辻いいね」という文化があります。
知らない人に辻斬りのように、通りすがりにいいねするっていう。
通りすがり感。通りすがりに、なんかいいなって思われたい。
変な文章ですみません。
フォローしないでくれってわけでもないんですが、Mではない存在としてインターネットで好き勝手してたい。というだけです。
nuらしさ、なんてものは一生形成してくないというか。
夜更新しようと思ってたけど、思い立ったのでば〜っと書いてしまいました。
本当に脈絡のない余談
さて、漫画の原稿に戻ります。締め切りはやばい。
でも明日は合コンで口説かれた方とデートなんですよね〜。
行く理由は、取材です。漫画描くのに、知らない人にいろんな話聞ければ聞けるほどいいので。
前回の記事でお話ししているようにL寄りなので、異性の方に興味持てないんですけど、でも、まだ少しだけ「レール」に戻れたらいいのに…と思っている自分がいる。異性と出会うたび、自分に期待する。レール…それは、幼い頃私が思い描いていた、働き方は正社員で、異性と結婚して家庭を持っている大人になること、です…。
理想の自分と、生き生きしてる自分にギャップある、という話もまた次回以降の記事にて。レールに囚われてしまう話。
本日も乱文をお読みくださりありがとうございました。