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JPCA2024:訪問診療での超高齢者の看取りにおけるExpert Generalist Practiceの実践
2024年6月に浜松で開催される第15回日本プライマリ・ケア連合学会学術大会でのポスター発表の内容が、おそらく不十分で理解困難な気がするので、こちらにテキストとして掲載しておくことにする。一般向けではないのでそのうち書き直そうと思う。
超高齢の患者の訪問診療において、Expert generalist practice(1)、つまり個別化されたケア(personalized care)と解釈学的医療を実践した試みについて報告する。
ライフヒストリー
Fさんはわたしが3年前に現在の診療所に赴任したときから訪問診療を担当していた方で、その当時99歳だった。都営住宅に独居であり、認知症はなく、自立した生活を営んでいた。当院からは喘息、慢性心不全などで訪問診療を行っていた。窓の外は空き地になっており、南向きの窓は常に日当たりがよかった。安定した状態が長く続き、訪問診療では診察は手早く終えて、Fさんの今までの人生について聞くことが日課となっていた。
東京に生まれ、女学校時代から自分で小遣いを稼ぐなど当時から自立した性格だったというFさんは、卒業後はタイピストとして東京都心部で働いた。ちょうど太平洋戦争が終結した頃で、進駐軍とのやり取りもあったという。物怖じしない性格のFさんは重宝され、政府の要人との関わりもあった。年の離れた夫と結婚し、夫の会社経営を助け、夫の連れ子3人を育てた。子どもには厳しく、常に正座で、敬語を使わせていたという。長唄と三味線が趣味であり、人間国宝となった師匠に師事し、晩年まで趣味として楽しんでいた。夫が他界後、独居となり、長女からは一緒に住まないかと提案があったが、「自分の勝手にできない」と断っていた。訪問時には今までの自分の人生について饒舌に語ってくれた。その中で自分の性格について
「わがまま」「自分勝手」「やりたくないことはやらない」と述べていた。
超高齢となり、周囲の人々が亡くなっていく中で、「早く逝きたい」と度々こぼし、自分のことを「逝き遅れた、化け物」と揶揄していた。最期はどこでどのように過ごしたいか、機会をみて尋ねると、「人に(家族にも)迷惑をかけたくない。(入院は)勝手がわからないからしたくない」と言っていたが、動けなくなったら場合は「みなさんのいいようにしてください」と入院や施設入所も否定しなかった。
また、夫に禅を学んだというFさんに、死んだらどうなるか考えたことはあるか、と聞いてみると、「死んだことがないからわからないですね。そういうことは考えないようにしています。」とはぐらかされてしまったが、Fさんらしい答えだと感心した。
経過
X年1月 胆管炎発症
X-1年夏に熱中症で体調を崩し、それから物忘れや体力の低下を自覚していた。X年1月に発熱があり、臨時往診した。COVID-19の抗原検査は陰性だったが、一日中布団で過ごす状態が続いたため、本人を説得し、入院加療の方針とした。しかし救急車を呼ぶ段階で、「コロナでなければ家にいたい。隔離されたくない」と入院を拒否し、家での療養を選んだ。徐々に皮膚が黄色くなり、血液検査とエコーでは胆管炎の疑いが濃厚だった。「自分の力で生きられるなら生きてみようと思います。(入院は)勝手がわからないので家にいたい。(トイレにいけなくなったら)おまかせします。」と話した。抗菌薬投与で状態はやや安定し、なんとかトイレにも行って一人での生活を続けたが、徐々にベッド上での時間が長くなった。
creative capacityの発揮
Fさんは這ってでもトイレに行き、食欲はなかったが、いつもの玉ねぎのスライスサラダとパンの朝食を用意し、大好きな濃くて熱い緑茶をのんで自分の生活を続けようとした。病の中にあっても、病が個人の生活にもたらす破壊的な影響に対し,身体的,心理的,社会的に適応することによって,自己を創造していく能力のことを、英国の家庭医であるReeveはCreative capacityと表現した(2)。現象学者のCarrelのいう「病の中にあっても健康である」状態を実現しようとする努力である(3)。
self=coherence+engagement
Fさんの家の目の前は空き地であり、木が生い茂り、風がよく通る部屋だった。Fさんはここで暖房も冷房もほとんど使わず、人工的な環境音がほとんどない静かな部屋にいつも一人でいた。
ここで逝きたいです。空に飛行機が飛んでたり、鳥が巣に帰ってきたりしてるのを見ていたい。近所の人たちが気を使っているのか、その辺で話をするのを控えてるみたいで、聞こえないけど気配でわかります。いつも通りにしてほしい。
同じく英国のDowrickは、self(自己/主体)の要素をcoherenceとengagementとした(4)。Fさんはできないことが増えつつあるが、曲がりなりにも一人のいつもの生活を続けることで自己のcoherence(一貫性)を保ち、周囲の世界の気配を感じることで、世界の中に存在し、コミットするというengagementの感覚を得ていたのだと言えるだろう。
X年4月 全身状態低下 自律性の喪失 selfの失墜
4月には徐々に全身状態は低下し、腹水や著明な下腿浮腫が出現し、指先にはチアノーゼを認めた。排泄もおむつとなり、ベッドから動けなくなった。
もう判断力がないから、どちらでもみんなのいいようにしてください。せっかく頑張ってきたのに、残念。
と自ら判断力がないことを冷静に理解しているようだった。ここでFさんの日常生活は破綻し、意識がとぎれとぎれになることでengagementの感覚も失われていった。ついにFさんは白旗を挙げ、自らの主体性、Selfを手放すしかなかった。
Dowrickは自覚的なengagementの感覚はなくても、受動的にケアを受ける状態でも世界と関わることをengagementの要素に含め、selfが維持されるとし、一貫した自律性や意識が継続していなくても、継続した意識を持つ能力がある主体のことをselfと定義しなおしている。長女と話し、Fさんがいままで家で粘っていた経緯を考えると家で看取ることがよいだろうと合意し、長女が夜泊まり込んで看病を行った。長女もわたしたち医療者も、Fさんの自律性が失われても、Fさんのselfを維持しようとした。
X年5月 看取り
徐々に状態は悪化し、首を横にふったり手をひらひらさせるが、会話はできなくなった。手足は紫色になって冷たくなり、おしりに褥瘡ができた。5月のある日、この日は長女の代わりに次女が泊まっていた。朝、診療所の携帯電話に呼吸をしていないと連絡があり、家族立会のもと、死亡確認した。やや微笑んでいるように見える非常におだやかな表情だった。しばらく家族と患者の思い出話をし、退室した。
考察
チベット「死者の書」
Fさんの死を眼の前にして、ふとわたしの頭の中には、大昔にテレビで見た「チベット死者の書」で、死者の枕元でお経を読む場面が古い記憶の中から浮かび上がってきた(5)。
「死者の書」バルド・トドゥルはチベット密教の埋蔵経である。チベット仏教では輪廻転生を脱する解脱の最大のチャンスが死の直後だと考えられており、死者を解脱に導き、それが不可能であれば、よりよい人間に生まれ変われるように導くために、死の前後から49日間、死者の枕元でお経を読む。
「バルド」とは「中間」や「途中」を意味する言葉であり、「存在とは中間であり、過程であり、途上である」という考え方が示されているという。また「トドゥル」は「耳で聴いて解脱する」という意味を持っている。
Fさんが亡くなる少し前、終末期のせん妄状態に突入し、目を閉じて手をひらひらさせたり、首を横にふったりするが、話しかけても反応はない状態が数日間続いた。このときがまさしく生と死の中間にあり、バルド・トドゥルを読む時期だったのではないかと感じられた。Fさんは「死の直前」という苦しいトンネルを通り抜けて、苦しみから解放され穏やかな表情で亡くなった。その経過を見ていると、死は通過点でしかないということが信じられる気がした。つまりわたしはFさんの死に輪廻を直観したのではないか。
ハイデガー 先駆的決意
3年間の訪問診療で、Fさんのライフヒストリーを詳しく聴取し、その中でFさんの人生観や人となりを知ることができた。Fさんの価値基準は自分の内部にあった。どうにもならない自分の身体をある意味「他人事」のように観察し、最期まで個として孤独に、自律して生きようとする終末期のFさんの人生観は、ハイデガーの「先駆的決意」という概念を想起させる(6)(7)(8)。死は最も固有なものであり、だれにも替わってもらえず、他者とも共有できない。先駆的決意とは、この自らの死の可能性を前のめりに先駆けて引き受け、自分の固有性を生きる、もっとも自分らしくあろうとする決意である。死の固有性はその人の尊厳の源でもある。他人が誰も踏み込めない、最も固有なものこそ、その人の死である。
生命の根拠関係
意識がはっきりしているときは自律した主体として、個の尊厳を体現して生きたFさんは、生と死の中間状態を通過し、「死」という個々の生命の境界が喪失し、生命そのものへと融解した状態に還っていった。
精神科医の木村敏は、現象学とハイデガーと西田幾多郎に影響を受けたその生命哲学を著した書で、生命の「根拠関係」について述べている(9)。
木村はヴァイツゼカーを引用し、生きものが、その生存を保持するために、周囲の世界とのあいだで保っている接触のことを相即とし、主体は、環境世界との相即が保たれている限り、主体として存続することができるとしている。つまり主体を、生きものと、その周囲の環境世界との接触現象そのもの、「あいだ」の現象であると定義しているのである。
この主体の概念では、従来の主観・主体概念と異なって、人間の意識や理性を前提としていない。意識がなくても、環境世界との接触を保ち、境界を成立させているかぎり、その境界面において主体として生きていると言えるということである。例として、睡眠中の人や、意識のはっきりしていない乳幼児、植物や単細胞生物が挙げられている。ここに認知症患者も含まれるだろう。
主体はその細部にそれぞれの歴史、生活史を持っており、その歴史的な自己意識が人間の個別性を保証する。しかしその深層には、意識を持たない他の生命と同様の、集団的ともいえる生命そのものとのつながりがあり、ここに人間の生命も根ざしている。
二人称の死
木村はまた、リアリティとアクチュアリティの違いについて述べている。アクチュアリティとは、いわば主観的に存在すること、主観的な現実であり、リアリティは客観的に存在するもの、とでも言える概念である。生きていること、一人の生はその人自身にしかアクチュアルに体験されず、他人の死を体験することはできない。これは、人はその死を究極として、替わりのきかない固有の存在であることを念頭に置いた、ハイデガーの先駆的決意と通ずる考え方である。
一方、個々の生命と異なり、「生命そのもの」は死ぬことはない。延々と続くものであり、リアルな存在である。そこには個々の生命の境界はない。自分の死を経験した人はいないため、その自身の死のアクチュアリティについて語ることができる人はいない。これを一人称の死、としている。
また他人の死は、三人称の死とされており、第三者がアクチュアルに体験することはできず、常に他人事である。
二人称の死とは、家族などの集団のメンバーが死ぬことで、集団の生命が、またメンバーのひとりひとりの生が変化を余儀なくされるアクチュアルな出来事であり、死の連帯性と呼んでいる。
Fさんの死に輪廻を見、生命そのものと還っていく生命の根拠関係を感じたわたしは、Fさんの死を他人事として捉える三人称の死ではなく、二人称の死として体験したのではないか。
医学への主体の導入
木村は、ヴァイツゼカーの提唱した「医学への主体の導入」についてこう述べる。
患者の生と死を自分のアクリュアリティとして生きること、それは患者との出会い、患者との境界そのものを自分自身の主体として生きることと同義でありますし、患者との関係を患者の主体として扱うこととも同義なのです。
また、自と他の区別が曖昧で、個人と個人の関係性、「あいだ」を重視する日本では、西洋的な「主体」という概念よりも、生命の根拠関係、輪廻の考え方の方に馴染みがあり、日本における医学への主体の導入において、仏教の考え方が重要な役割を果たすのではないだろうか。
参考文献
Reeve J, Dowrick CF, Freeman GK, Gunn J, Mair F, May C, et al. Examining the practice of generalist expertise: a qualitative study identifying constraints and solutions. JRSM Short Rep. 2013 Nov 21;4(12):2042533313510155.
Reeve J. Interpretive Medicine. Occas Pap R Coll Gen Pract. 2010 Jan;(88):1–20.
Carel H. Can I be ill and happy? Philosophia. 2007 Aug 7;35:95–110.
Dowrick C. Person-centred Primary Care: Searching for the Self. 第1版. Abingdon, Oxon ; New York, NY: Routledge; 2017. 178 p.
榊原哲也. 医療ケアを問いなおす: 患者をトータルにみることの現象学. 筑摩書房; 2018. 224 p.
高井ゆと里. 極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる. 講談社; 2022.
轟孝夫. ハイデガー『存在と時間』入門. 講談社; 2017.
中沢新一. 三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界. 角川書店; 1996.
木村敏. からだ・こころ・生命. 講談社; 2015. 63 p.
McWhinney IR, Freeman T. Textbook of Family Medicine. 第3版. Oxford University Press, U.S.A.; 2009. 472 p.