【おはなし】塔の街のヌーとモモ⑧
ep.8 赤い日記帳
ある日、ヌーはふと いつもつけている日記帳を見返してみました。
赤い表紙の日記帳で、ヌーはたいていそれを朝に書いていました。ふつう日記は夜に書くものですが、夜はいつもすっかりその日を満足して、ヌーはベッドの中で心地よく眠りたいばかりなのです。わざわざ机に向かってペンを走らせるなんてことはばからしいので、それで次の日の朝に昨日のことを思い出して書いているのでした。
初めてモモと会った時のことや、果実狩りに出かけた日のこと、釣りに出かけたこと、夜のお祭りに行った日のこと…
日記を読み返していて、あぁそういえばこんなこともあったわ、と懐かしい気持ちになりました。
今まで忘れていたことも、読み返せば思い出します。映画のワンシーンのように、その時の光景が頭に浮かんでくるのでした。
しかし、不思議なことに、日記を遡れば遡るほど、ヌーには何が書いてあるのかよく分からなくなってゆきました。
そこに書いてある文字は読めるのに、まるで知らない世界の言葉のようで、読んでも読んでも頭の中からスルスルと内容が出ていってしまうようなおかしな感覚になりました。
まるで誰かが 読んではいけない と言っているようでした。
ヌーはそっと日記を閉じました。
裏表紙には、たしかにアルファベットで NU と書いてありました。何度も本棚から出し入れして、だいぶん名前の文字はかすれていましたが、たしかにそれはヌーの日記帳でした。
いつのまにかその帳面はずいぶん埋まっていて、あと少ししか書くページがありません。
「新しい日記帳を買った方が良いわね。」
ヌーはどうせなら、次も同じ帳面が良いと思いました。すっかりこの日記帳が自分のなかでおなじみになったので、全く違うものにするのは居心地が悪い気がしたのです。
全く同じものをどこで買えるか見当がつかなかったので、モモに聞いてみようと、ヌーは日記帳を持ってモモを訪ねていきました。
「これは、この街じゃあ買えないね。」
話を聞いて、モモは日記帳を一目見るなり言いました。ヌーは驚いて
「どこに行ったら買えるでしょうか」
と聞きました。
「ぼくには、わからない。」
モモはじっとそれを見つめ、少しぼうっとした様子で応えました。
「モモにもわからないことがあるのねぇ」
「それはそうさ。それにきっと、君のほうがよく分かるはずだ。君の日記帳なのだからね」
それは、確かにそうでした。しかしヌーにはどうしても、これをいつどこで手にしたのか、分からないのでした。
「同じ日記帳を探すのは、諦めたほうが良さそうね」
ヌーは、とても残念に思いましたが、どうしたって仕方がないという気持ちでした。
「ところで、きみ。きみはいつからそんな風になったんだい。前に会った時とはずいぶん様子が違うじゃないか。」
モモはヌーの顔をまじまじと見て、そして壁の鏡に目をやって、ヌーに見てみるようにうながしました。
ヌーは鏡の前に立ちました。
黒い肩までの髪に、ワンピースを着て、手に赤い日記帳を持って映っていました。
頭には、黒い毛並みの尖った耳がありました。
そう、モモや他の街の住人と同じように。
ヌーは、特に変わったような所はない気がしました。
「どこかおかしいかしら?」
「………」
モモは黙って部屋の窓のそばに行き、開け放しました。そうして少しの間、遠くの方を見つめ、やがて振り返って言いました。
「君に、本当のことを教えてあげよう」
風がびゅうっと吹き込んできて、二人の間を駆け抜けていきました。
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