【おはなし】塔の街のヌーとモモ⑩
うっすらと白い霧がたちこめる坂道を、ヌーは登っておりました。
もうどれくらい登ったでしょうか。あたりは、店や家々が少なくなり、すれ違う街の人も居なくなってきました。霧雨が肌寒く、寂しげで、ヌーはたいそう心細い気持ちでしたが、それでも上へ上へと登っていきました。
モモから、街のほんとうのはなし、そしてヌーがどこか違う場所からやってきたのだという話を聞いて、ヌーは色々なことを考えました。
元いた場所に戻ったほうが良いのだろうか。戻ればモモたちのことは忘れてしまうのだろうか。わたしはなぜここに来たのだろう。
うんうん悩んで、熱が出るほど考えて、やがていつのまにか寝てしまいました。そうして起きた時には、何だかどうでもいいような、空っぽの気持ちになっていました。
もう、忘れてしまおう。この日記帳を捨てて、過去のことはなかったことにしよう。そうして、今までどおりこの街で、モモたちと楽しく暮らしていこう、とそう思ったのでした。
そして、この日記帳を、いっそ街のてっぺんから放り投げてしまおうと考えて、今、塔の街を上へ上へと登って歩いているところなのです。
モモには、話していませんでした。
話せばまた心が揺らぐような気がしたからです。
霧はどんどん濃くなってきました。やがて、あたり一面が真っ白につつまれて、何にも見えなくなりました。ヌーはもう登っているのか、何なのか、どこを歩いているのかわからなくなってきました。
それでも、ヌーはずんずん歩いていきました。
やがて、不思議なことに、ぼんやりと、昨日見た夢のように、頭に様々な光景が浮かんできました。それは、古い映画のフィルムのように、途切れがちながら、ヌーの記憶を映し出していました。
ある朝、起きて、お母さんから電話があったわ。すぐに来てちょうだいと。わたしは、どこにいたかしら?どこか違う場所にいて、ぼんやりしながらタクシーに乗って病院に行ったのだわ。
こんないつもどおりの、普通の朝に、大変なことが起こるなんて、そんなはずないって思ってた。きっと、着いたら、やぁ って声をかけてくれる。そして、お母さんてば大袈裟だねって言って、みんなで笑ってそれでおしまいになる、きっとそうだわ。
記憶は、ジグソーパズルのようにヌーの頭の中で少しづつ繋がっていきます。
それなのに、着いたら、看護婦さん、すごく慌てた様子で部屋まで案内してくれて、そうして見たら、お父さん、ベッドの上で、すっかり違う様子になっていて、わたし、びっくりして、あぁ、今日はこんなにいつもどおりの日なのに、何でこんなことになっちゃうの。
わたしもお母さんもわんわん泣いて、そうして、そのうち、静かになって、その後どうしたのだったかしら?
「あぁ、そうだったわ。わたしは、お父さんが、あんまり突然亡くなったものだから、悲しくて悲しくて、それで全部忘れてどこか知らない場所に行きたいと、お骨をお山に運ぶ時に、空にかかった虹を見ながら、そう思ったのだわ。」
ヌーの目から、ぽろぽろと涙が流れて落ちました。真っ白な霧の中を、赤い日記帳をぎゅっと握りしめて、ただ歩いて行きました。やがて風が吹いてきて、冷たい向かい風がヌーにささります。それでもヌーは歩みを止めませんでした。
「お母さんを、一人置いて、わたしだけ逃げて来たなんて。お父さんのことも、今まで忘れていたなんて。」
ヌーの頭に、モモたちのことがよぎりました。
しかしヌーの心はもう決まっていました。
「みんなに、さよならが言えなくて悲しいわ。」
ヌーは楽しかった日々のことを、どうか忘れないようにと、出来る限りしっかりと心に刻みます。
この街で過ごした日々は、ヌーにとって必要な時間だったことでしょう。しかし、もう帰る時がやってきたようです。
「お母さん、わたし、今もどります。」
真っ白な霧は、ヌーをすっかり包み込んで、やがてどこにもその姿は見えなくなりました。
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