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撮影初日
翌日に、撮影1日目がやってくる。その不安と緊張が、私のまぶたが閉じるのを阻む。睡魔が近寄るたび、緊張というスポイトがそれを吸い取る。
午前五時。いまだ眠れぬ私は、就寝を諦め、家を出た。
寒波に肌をきりつかせながら、駅の改札にはいる。誰もいない、幽霊船のような電車内で、揺らめきながら過ぎ去る明朝の景色をみながら、ロケ地である北浜にたどり着いた。
改めて、動きを確認する。両手でハコをつくり、それを画面に見立て、シュミレートする。ハコのなかで陽が差しはじめたころ、音響スタッフの山本さんがやってきた。
「あれ、みんなまだなん」
彼の問いに、私は右口角を上げて頷いた。山本さんののどかな笑いが、はじまりの朝にひろがる。そのあと、次々にスタッフがやってきた。初めてオフラインで顔を合わすメンバーもいたが、「波長が合う」とでもいうのだろうか、人間の周波数、の似た方々ばかりで、すんなりと溶け込んでいった。
キャストも合流し、撮影が始まった。
最初に撮ったのは、稲荷さん演じる芝浦カナが「笑う」シーン。
彼女が自然に微笑むショットを納めようと思った。
しかし、「自然に笑う」を意図してやるのは至難を極めた。
どこか演技的で、不自然なのだ。
10テイクほど重ねるものの、イメージ通りの笑顔が見えない。重い緊張の空気になれば逆効果と思い、時折おどけながら、現場の和やかな雰囲気を崩すまいとした。20テイク近く撮ったところで、イメージに近い微笑みを、稲荷さんが浮かべたため、OKテイクとした。
この時点で、予定スケジュールから1時間押してしまい、その後のシーンも想定以上の時間がかかり、押しに押した。
だが、メンバーの空気感も相まって、ピリついた現場にはならず、終始笑顔の絶えないロケとなった。そして、陽が沈みはじめたころ、この日の撮影は終了した。白黒の夜空が顔を出して、私たちを見下ろす。そのモノクロに向かうように、メンバーが散り散りに帰路につく。
かじかんだ自分の手のひらを重ねながら、中之島公会堂を見つめた。
いなくなった殺風景な宵闇のそれは、もの寂しさといっしょに、公会堂という使命を終えた安堵感もみえた。
公会堂の背景に、おわり、の文字が浮かんで、湖に沈んだ絵の具のように、闇へ溶け込んでいく。白い屑や粒がそれに押し寄せ、とりどりの海となって沈んでいく。
私は立ち上がり、駅の改札を目指した。
(文・小池太郎)