なんで目くらのふりなんかしてやがんだ
イライラした表情。悲しげな顔。苦しげな目。
外に出ると、そんな光景が矢継ぎに現れては去る。それを見るたび、怒と哀が心のうちで交錯しては過ぎていく。
何も見たくない。視線は自然と、無慈悲なアスファルトへ移る。灰色に染まった路道だけを瞳に映して歩けば、余計な感情が吹き出ずに済む。
他者と話すときもそうだ。顔を見ながら話すと……言葉やしゃべり方はそうではないのに、表情で「怒っているのかな」と感じてしまう。つい私も怯え口調になり、会話のテンポがワントーンずれる。逆も然りだ。
本人はそうしているつもりはないのに、相手が勝手に解釈する。
当人は無意識なのだ。傷つけたり、苦しめたりする意図はない。「理由」をこっちが勝手につくって、苦しんでいるだけなんだ。一つずつ、言葉や、声の波長を感じ取れば、それが自然と……見えてくる。
北野武監督作品「座頭市」。主人公の市(いち)は瞼を閉じたまま刀を振りかざす。音だけで気配を感じ取り戦う。
しかし終盤。目くらを罵倒された彼は、うっすらと瞼を開ける。
「なんだお前、見えるのか」
敵に問われた市は、そうだよ、と答える。
「なんで目くらのふりなんかしてやがんだ」
市は視線を落としながら、静かに答える。
「目くらのほうが、人の気持ちがわかんだよ」
(文・小池太郎)