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古寺の三訓 ~現代に通じる古の金言~
偉大な発明や発見にはセレンディピティと言われる予期せぬ偶然や巡りあわせがあると言われます。日常生活でもそこまで大それた話では無くとも一寸した幸運な巡りあわせやラッキーな出来事はあるものです。
随分と昔の話でいつごろなのか、どなたが話していたのかはっきり覚えていませんが、内容は為になったので今でもはっきり覚えている言葉があります。
それはとある技術・工学系のセミナーでの話です。講師はよく講演中に本題から脱線して一寸した逸話や関連の蘊蓄を傾けることがよくあります。この種の脱線した内容が時として思いのほか面白かったり、参考になったりするのもセミナーの醍醐味の一つです。
今回紹介する話もその範疇です。
セミナーの講師は、こんな感じで喋っていました。
「皆さんも会社でお仕事をする上でやりたく無い仕事を命じられたり、自分だけ困難な仕事をやらされているのではないかと悶々と感じたり、誰も手伝ってくれずに不満がたまってモヤモヤしているようなこともあるのではないでしょうか?そんな時はこの話を思い出して下さい。
それは、松尾芭蕉が奥の細道の旅程で山奥の古寺を訪れた際の噺です。」
という冒頭の枕詞に続き三つの金言を話しました。
「本堂の掛け軸に三つの訓戒が書いてありました。芭蕉は非常に興味深かったのでその言葉を書きとめ、後に弟子たちに言い聞かせたそうです。
昔の言葉では分かりにくいので今風に言えば次のような感じです。」
1.一生懸命やれば楽しくなる
これは納得です。何事も前向きに我を忘れるがごとく事に取り組めば自ずと楽しくなるというのは実感として良く分かります。そして次に、
2.一生懸命やれば何とかなる
一生懸命やれば何でも上手くいくのであれば苦労しない、という感じはします。しかし上手くいかなかったときのことを想うと心の底から一生懸命事に当たったかと自問すると心もとない気がします。どうせ駄目なのではないかというネガティブ想いが少しでも心に宿ると想いは実現して上手く行かないのかも知れません。心頭滅却して事に取り組めば何とかなると考えた方が人生平和な気もします。
そして最後の言葉は一寸意外です。
3.一生懸命やれば誰か助けてくれる
何と気の利いた言葉でしょうか! と思うと共に、経験的にこの台詞は妙に納得です。〆切に間に合いそうにない、または自分のミスで何とか挽回しなければ等と焦燥し、鬼の形相の如く必死になって事に取り組んでいるような時は不思議と誰か助けてくれるものです。また身の回りにそのような人がいれば何か手伝おうかという気にもなります。
このように何事を行うにも“一生懸命”という心の持ちようが上手く事を運ぶ上での要諦であることをこの訓戒は教えてくれます。また何事も‟一生懸命“やることで楽しくなり、仲間を増やし、そして何といっても幸せな人生に繋がるキーであることも示唆しています。
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人生永いこと生きていると有難いお言葉に何度か出くわすことがありますが、古寺の三訓もその有難い言葉の一つです。セミナーの本題は全く覚えていませんが、この話を聞けて大変ラッキーだったと思います。
こういった一寸した巡りあわせも一種のセレンディピティなのかも知れません。
<2023.4.18>
<注>
*後にネットで調べてみましたが古寺の三訓なる内容は一切検索に出てきま せん。
*松尾芭蕉の逸話かどうかも不明です。
*もしや自分の妄想の為せる技かと思えたりもします。
*今となっては真偽を確かめる術がありませんが、為になった事実は確かで すので由としています。(・_・;)