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学習院大学 国際社会科学部の謝辞に思う、天才の孤独と橋渡しについて

私が大学を卒業して7年。今年、母校のある謝辞がバズった。どうやらもう公開されていないようだけど、探せば出ると思うので読んだことない方は探してください。なかなかに尖っています。

記憶を頼りに簡単にまとめると、「女性の自立のため、努力してきた。そんな自分に一番感謝する」「ありきたりな言葉で満足するようなら進化や発展はない」「言論の自由がある」的な感じ。いや、まじでこれじゃあ伝わらないし、歪曲されるされる可能性もあるから私のまとめは鵜呑みにしないで欲しい。

まず初見で私は「すげー!」と言った。全面から強さがにじみ出て、ただひたすらに圧倒された。彼女の生い立ちに想いを馳せ、どんな人生を送ればこんな強い芯を持てるのだろうと物思いにふけった。そこにあるのはひたすらに「感心」で、それ以外の、違和感のようなものは何も感じなかったように思う。

ただ、その後SNSを見ていると「その結果は一人だけで成し遂げたものではない」「自分しか見れてない」「環境的に努力できない人もいる」などなど、という声を見かけ、ハッとした。私はその文字面の強さだけに圧倒されてしまい、あの文章で自然と選別されて振り落とされている人間がいるということを見落としていた。(とか言って汚い言葉や馬鹿にした言葉で彼女を批判したり揶揄ったりしていいわけではないし、そんなコメントは全部ブロックした)

そこで、ふと思い出したのが前職での出来事だ。私も振り下ろされた側になったことがある。ある同僚との話だ。

その人は天才だった。頭の回転が早い上に記憶力がいい、アイディアもすぐに出る、スピード感もある。本気でこの人になりたいと思っていた。
ただ、その人に「いいな、頭が良くて」と言うと本気で嫌悪される。「俺、一番その言葉が嫌い」と言う。何故なら、生きてきた二十数年で努力を重ねているからだ。私の知らないところで、誰も知らないほどの努力を。だから頭がいいのではないそうだ。努力の結果なのだそうだ。
その人は恐ろしく他人の気持ちを理解できない。平然と見下す態度を取る。そして「だってあの人、なんもやんねえじゃん」と言い捨てる。俺は努力しているのに、あいつはしない。だから視界に入れることすらしない。そんな人だった。

ある日のMTGのことだ。前のMTGで私たちメンバーが上司に投げかけた意見・提案に対して答えが返ってこず、「あの、あの時の提案ってどうなったんですか」と震えながら聞いた。どんな答えが来るのか、怖くて怖くて仕方がなかったけど、答えがないほうがもっと怖かった。だから勇気を出して、その場で聞いた。一生懸命一緒に考えてくれたメンバーのためにも。まあ実はそこで答えはもらえなかったんだけど。それでMTGがお開きになろうとしていた時だ。
「あの」
その人が口を開いた。
「自分たちがやることできてないのに上に人に求めてばかりなのもどうかと思います」

自分たちがやることできてない、というのはもちろん業務的な意味だろう。確かに私たちはあなたに比べるとポンコツだ。だけど、努力をしていないわけじゃない。もしかしてベクトルが違うだけかもしれなくて、あなたの努力と私の努力は違うのかもしれないけど、けど、できない、私が、いけないんですね。
MTGが終わった後、いろんな人が「あの場で発言してくれてありがとう」とメッセージをくれた。私は泣きながら部長に「私は間違っていましたか」と訴えた。「間違ってなかったよ」と言ってくれた。だけど私があの場で否定されたのは間違いなかった。私は発言する権利を失ったのだ。

話を戻して、謝辞を見てみようと思う。

私は素晴らしい学籍を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

あの人と言っていることと、とても近かった。胸の古傷が痛んだ。優秀な人しか、努力してる人しか、発言権がないのか。そんなはずはないのにね。

2人に共通していると感じる部分は『努力の天才』であるところだろうか。(彼女に関しては推測でしかないが)
この世の天才という生き物の大半は『努力の天才』だと思っている。その努力は「やればできるもの」だと思っていて「やらないからできないんだ」と思い込んでいることが多い。だけど『努力』なんて曖昧なワードは、誰一人として意味合いを固定することなんてできないはずなのだが、己の強い価値観を信じて生きている。何故か。
これは私の同僚の話に限るけど、彼は「一人でなんでもやってきていた」
知る限りでは、高校、バイト、大学、サークル、仕事、全て自分で選択決断してきていた。選択する際も強い理由、確固たる意志を持っていた。たった一人でなんでもやってきた。他人なんて知ったこっちゃあなかった。他人を受け入れようとはしなかった。(なんだか孤独だけれども、それのほうが楽だったとみる)(天才とは凡人と相いれないのだろうか)

逆を言うと、たった一人でやっていけるほど恵まれてもいたのだ。選択だって広くて自由、情報だってがんがん入ってくる。どんな経験や努力をつめばこの世界でやっていけるのかを、きっと若くから理解していた。

さて、突然だが話を冒頭に戻したい。私は謝辞を読んだとき、全く違和感を覚えなかった。むしろ「すげー!」と思った。つまり私は”彼女側”の人間なのだ。正直自覚はある、「私は恵まれている人間だ」と。限りなく勝者に近い。油断するとめっちゃ人を見下す。
中高大すべて私立に通い、ありとあらゆる知識と経験を吸収し、「どれにしようかな」と選ぶ自由がある。環境面や身体面で言うと、今のところ不自由なことはない。私も唯我独尊道をつっぱしっていた可能性もなくはない。
だけど、私は過去に振り落とされた経験だってある。どうしても”そこ”にたどり着けなくてもがく人がいることも知っている。いろんな価値観、いろんな考え、いろんな人生を教えてくれる仲間もいる。それを自分の中に落とし込み、言葉に変えることだってできる。

つまり、どちらの立場も理解できるんじゃないかなって。

だからさ、私はさ
鼻高々なカースト上位のやつらをぶん殴って目え覚ませっていうことぐらいできるんじゃない?

なんてね!(少なくとも元同僚はぶん殴る。そろそろお前30だろ多様性理解しろ!って)
上にいる人って頑固として下におりてこないんだよね!下にいる人のこと超興味ないんだよね!何でですかね!(おこ)

なんにせよあの謝辞にある「女性の自立」の部分には共感しかないし、「一番頑張った自分をほめてあげたい」気持ちもすごくわかる。本当にすごい。あと「最も感謝すべきは自分」に関しては、「最も」が自分であって周りにも感謝してる、はず、だし、他の卒業生も自分が大学で培ってきたことを自信に、誇りに、社会という大海原へと進んでもらいたい。

これからの彼女の進む道に非常に興味がある。どんなふうに生きていくのだろうと。もちろん、明るい意味で。だから今私が送ることができる言葉はこの一言しかない。

卒業おめでとうございます。貴方のこれからの道に幸多からんことを。

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