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お江戸の幽霊はどうして足がない?の話

コウ毎夜毎夜、熱帯夜が続きますと
ひとつ涼しくなるようなお話でも欲しくなるところでございますネ。

そんなワケで。
本日は『幽霊の日』ということに因みまして
『お江戸の幽霊たち』についてお話します。


さて本日7月26日がなぜ『幽霊の日』なのかと申しますと
時は文政8年(1825年)7月26日。中村座にて四代目鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』が初演されたことから由来しているそうです。

ちなみに『**の日』ってどこのどなたが決めてるのヨ、
と思って調べましたところ、国の機関が定める祝日や年中行事以外では、日本記念日協会によって定められることが多いようです。

しかし『幽霊の日』は当協会HPに記載がないことから、
歌舞伎関係者や歌舞伎を愛する観客たちの作品に対する畏敬の念から『幽霊の日』が定着したのではと推測します。

さて、本題。
現代の幽霊スタイルは足がなく、下半身はうっすらと消えているのが定番となっています。

現代日本でも幽霊は『女性、痩せ型、白い着物』というのがスタンダードなイメージですよね。けれど江戸前期では『男性、両足がある』スタイルがほとんどでした。

いまだ戦の匂いがまだ残っている元禄時代では
戦で負けた武将たち、無念のまま散っていった男たちが『子々孫々まで祟る!』として凶暴な幽霊となって巷に現れました。

しかし徐々に平和な世になっていくにつれて、
『女が出てくる方が怖い』という方向にシフトしてゆくのです。

これは当時の女性たちの
地位の低さ、肉体的弱者として社会で位置づけられていたことから
、女性たちの無念さや執念がある種の『女の霊力』(女は怖い)信仰に結びつき、現在の幽霊スタイルのモトになったのでしょう。

もちろん江戸に住む彼女たちの個々は、
したたかに、力強く、たくましく生きていたことと思います。(そう信じております)けれど、女性全体の地位でみるとやっぱり江戸では社会的弱者であったのでした。

そして
『足がない』スタイルを確立させたのは絵師の円山応挙(まるやまおうきょ)だと言われています。


『返魂香之図(はんごんこうのず)』円山応挙。この絵を初めて見た時、彼女と目が合ったように思えて肝が冷えたのをよく覚えています。そしていまだに直視できません。

そして円山応挙は
どうして足のない幽霊を書いたのか・・・

とある言い伝えによりますと____

ある夜の応挙の夢に、亡き妻が現れます。
妻には足がなく、宙を漂っている・・。
応挙はその姿を忠実に描いたのだと言われています。。。

最後に。
私の個人的にすきな幽霊図をご紹介します。

月岡芳年(つきおかよしとし)の
『幽霊の図』

子を抱いた母親の幽霊。
死してなお我が子を抱き続けるその背中から目が離せないのは
おそろしいからなのか、うつくしいからなのか。

思わず両手を合わせ成仏を願ってしまうのは私だけではないはず。


参考文献:
『返魂香之図(はんごんこうのず)』円山応挙
『幽霊の図(肉筆画)』月岡芳年
『妖怪図巻』多田克己・京極夏彦
『江戸のアンダーワールド』コロナ・ブックス



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tomoyo nakao【蜂寅企画】演劇・時代劇
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