社会人こそ「学習」より「稽古」をしよう

先日、Amazonプライムビデオで「鬼滅の刃 柱稽古編」を観ました。
実はずっと「篇」だと思っていたのですが、それはBLEACHでした。

ufotableの美しい映像を見つつ、ふと思いました。

ところで「稽古」って何だろう?


「稽古」を辞書で引いてみる

goo国語辞書によると、「稽古」は以下のように記述されています。

芸能武術技術などを習うこと。また、練習。「—に励む」「—をつける」「毎日—して上達する」
芝居などで、本番前の練習。下げいこ。リハーサル。「総—」
昔の書を読んで物の道理故実を学ぶこと。学問
学窓に蛍を集めて、—に隙なき人なれば」〈太平記・一二〉

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%A8%BD%E5%8F%A4/

また、手元の『新明解 類語辞典』によると、以下のようにあります。

稽古・・・芸事・武術などを習うこと。「お花/ピアノの稽古」「稽古をつける」「稽古に励む」

新明解 類語辞典

「稽古」「手習い」の類語として立項されており、その他の語として「習い事」「トレーニング」「リハーサル」のような言葉や、「寒稽古」「立ち稽古」「出稽古」のような派生系が並びます。

「学習」「勉強」との違いは?

勉強・学習中の身としては「学習」「稽古」の違いが気になります。

学習・・・知識を学び習うこと。「英語の学習」「学習効果」

新明解 類語辞典

「学習」「学ぶ」の類語として立項されていました。ほかの類語として「教わる」「師事」「勉学」「勉強」などが記載されています。

この時点では、稽古も学習も、どちらも「習うこと」という点は共通しています。
「英語のお稽古」は個人的に許容範囲内です。小さな子供が英会話教室とかに行くことを、そのように表現していてもおかしくないかもしれません。
一方、「お花の学習」「ピアノの学習」はちょっと違和感を覚えます。何が違うのでしょうか。

スキルの体得につながるものは「稽古」?

英語学習について「英語のお稽古」と呼んでもギリ許せそうなのは、それが英会話や英語読解という「スキル」の体得に通ずるから、という仮説を考えました。
おそらく、当たらずとも遠からず、な気がしますね。
その証拠に、ではないですが、「算数のお稽古」や「理科のお稽古」はあまりしっくり来ません。

よって、座学で知識のみを得ることを主たる目的にするものは「学習」スキルを得ることを主たる目的にするものは「稽古」と呼ぶのが現代的な感覚のような気がします。

「稽古」の語源は?

インターネットで調べると、「稽古」とは「古きを考えること」が語源であるという説が多く見つかります。

日本では『古事記太安万侶序文末に「稽古」がありその意味は、「古(いにしへ)を稽(かむがへ)ること」である。

Wikipedia - 「稽古」より

インターネットの民っぽい言い方をすると「古事記にもそう書いてある」というやつですね。

要するに、「昔のことを考えて、それを踏まえて自分の糧にする」先人の知恵を活かすといったニュアンスを含む言葉のように思います。

「練習」と「稽古」の違いは?

何らかの競技の「練習」と「稽古」について考えると、
「練習」に対して「稽古」の方が「単なる技術だけでなく、内面の鍛錬を含む」というニュアンスがあるように思います。
この辺りも類語との違いになるようです。
ちなみに前述の類語辞典で、「練習」は「稽古」に近い領域で「鍛える」の類語として立項されています。

練習・・・技術・能力が向上するように、同じことを何度も繰り返して習うこと。「練習を積む」「練習試合」「猛練習」「発声練習」

新明解 類語辞典

「稽古」まとめ

まとめると、「稽古」は以下のような意味になりそうです。

  1. 「学習」よりも、スキルを体得する目的があることを含意する

  2. 「古を稽えること」という語源を持ち、昔の人の知恵を借りるニュアンスを含む

  3. 「練習」よりも、内面的な鍛錬を含むニュアンスを持つ

「鬼滅の刃 柱稽古編」では、炭治郎たち鬼殺隊は「スキルの体得を目指し、先輩である柱たちの訓練を受け、内面的にも成長していく」わけですから、およそぴったりの定義ができたと思います。

社会人も「稽古」しよう

ここまで考えて、「社会人としての勉強」も「稽古」であるべきだ、と思いました。

理由は以下の3つです。

  1. 自分の知識を増やすだけでなく、アウトプットに繋げる=スキルに繋げることが目的であるべき

  2. 自分でゼロから考えるのではなく、先人たちの知識や研究を大いに参考にすべき。車輪の再開発は時間の無駄

  3. 勉強しているからといって、勉強していない人を見下したり、増長した態度を取るようでは社会的に上手くいかない。=内面的な鍛錬も必要である

どうでしょうか?わりと「たしかに〜」ってなりませんか?

プログラミングの学習やプロジェクトマネジメントの勉強のことを「稽古」と呼ぶのは若干の違和感があるものの、その本質は「稽古」であるべきだなぁ、と感じました。

参考図書

「稽古」という文字をみて、僕が気になったのは「古」の文字です。明らかに昔の知恵を活かすことを念頭においたような、「いにしえ」という文字が気になって、本記事のような考え事をするに至りました。

で、そのきっかけとなった本があります。
田中 泰延さんの『読みたいことを、書けばいい。』です。

この本の中で語られる言葉の中で、特に良いと思った言葉があります。

ちまたにあふれるネット上の文章には、(中略)そんなこと、先人がさんざん考察して大昔に語り尽くしとるわ、というようなことを、自分の頭で考えようとして、得意げに結論をぶちかますような随筆だらけである。

『読みたいことを、書けばいい。』より

僕の記事すべてに矢が刺さりそうなこの一文。
あらゆるアウトプットは、「それ、先人がもうやってるよ」という指摘を受けるようでは、いまさら書く意味がない。それを避けるためには、徹底的に一次情報にあたりなさい
そして先人たちのアウトプットを「前提」として「それを超えるもの」を書きなはれよ、それが「巨人の肩に乗る」ということだよ、という田中先生のお言葉であります。いやはや痛烈です。

思えば、我々は小学校で足し算を習います。
それは「人生をかけて足し算を見つけた大昔の偉人」のおかげ(足し算に人生までかけたかどうかは知りませんが)かもしれないわけです。
つまり、人類の前進というのは「先人の知恵を前提として、考えを進める」ことに他なりません。
ですが、なぜか社会人の勉強となると「今知っているものを組み合わせて、どうにかしよう」としてしまいがちです。
たかだか10年サラリーマンをやってきたぐらいの知見で、隣の分野のハイレベルを自力で目指すことは愚の骨頂と言えるでしょう。
隣の巨人を見つけて、さっさの肩に乗りましょう。ということです。
それが「昔の情報を徹底的に調べる」ことであって、「稽古」という言葉にも通ずるのですね。
ということを感じた、そんな今回の随筆でした。

AI時代には学習・勉強・稽古の方法も、変わっていくのかもしれませんね。

今日はここまでです。
最後までお読みいただきありがとうございました。

いいなと思ったら応援しよう!