イメージを言葉にすると、実現化した話
と、言っても、スピリチュアル的なものでも、ほおら、夢が叶いましたよ!と言った自己を啓発する的な内容ではないので、そういった類の話を求めている方はここで読むのをやめることをお勧めします。
けれど、イメージしたものを言葉にして、声に出していく、言葉にしていくと実現化することはリアルな話なんだと思った経験であることには間違いないので、ご興味があれば読んでいただきたい。
それは今から10年ほど前の冬の年末。寒い寒い、雪でも降りそうな曇天の空の12月30日のこと。
大晦日の前日ということもあって大掃除やら買い出しやらで大忙しの最中に、お風呂の湯を沸かすボイラーが壊れてしまった。給湯器の電源スイッチを押し、お湯を溜めると書かれた赤いボタンを押しても出てくるのは水ばかりで、お湯ではない。これは困った・・・ということになった。
すでに時間は夜の21時。給湯器を設置した会社に電話したところで、この時間だ。さらに大晦日の前日となれば会社は年末年始の休日に入っていてもおかしくはない。
夫は水ばかり出てくる給湯器のスイッチを押すを渋い顔で何度も繰り返し、”きれい好き”な思春期真っ只中の娘は、そんな夫を茫然と見つめている。
浴室に広がる給湯器の「お湯を沸かします・・・お湯を・・・。」と、繰り返すアナウンスを聞いているだけではだめだ!この虚無な、何も生産しない空気感にいたたまれなくなった私は、だめもとでとりあえず電話しよう!とボイラーの会社に電話をした。
もうね、電話に出なくてもいいの。
壊れたものを前に、改善へ向かわせるために動いているっていう事実が、絶望に浸る娘と夫を救うはず・・・。
そう思いながら、頭の中で年末年始でも入れる近場の温泉浴場を思い出しつつ、直らなかった時の対処を考えていると、電話はいきなり通じた。
「はい?」
と、力のこもっていない寂しげさも感じる声が出る。
電話が通じたことに面食らいつつ、恐る恐る、
「・・・あの〜・・・ボイラーが壊れたようでして・・・。」
と、言ってみる。ここではまだ希望を抱かない。電話に出てくれても修理に来てくれるとは限らないからだ。
「ああ、はい。住所は?」
寂しげなのは少しも変わらず、力のない声がこちらの住所と氏名を尋ねてくる。
「え?あの、来てくれるんですか?修理、に・・・。」
「はい、住所は?」
背後から物音が少しもしてこないのは、この年末に電話対応するために店番をやっているからかもと推測する。だから、力のない声で寂しげなのかと思い、この方の状況に同情しつつも、修理に向かいます、の言葉に、明らかに歓喜を滲ませた声で返事をしてしまった。
さすがに夜のこの時間帯に修理に来るのは難しいということで、翌朝すぐに寂しげな声の持ち主はやってきた。
力のない声だからひょろりとした細い男性を想像していたが、ぽっちゃり体型の若い男性が工具を片手に現れたので「え?」って顔を一瞬してしまった。電話口から聞こえる声で相手を想像するのって、どこかちょっと失礼な時がありますよね、本当。
さっそく、家の壁面に設置されたボイラーまで男性を案内すると、彼はボイラーの正体をすぐに見破ったのか「やっぱり・・・。」と言うなり、工具を取り出しながら、「これ、リコール品ですね。」と、寂しげで力のない声で告げた。
「リコール品・・・。」と呟く私たち夫婦に、彼はどのへんがぶっ壊れていて、リコール対象となったのか、リコール品のわりには今まで壊れずにいたのは奇跡ということまでを抑揚のない淡々とした口調で話し続け、その場で手早く部品も交換してくれた。
これでもう、お湯は出る、という。
いやぁ、よかったよかった!と笑顔する私たちを、彼は、すっ・・とした涼しげ、いや、若干、冷たい目で見るなり、「でもねぇ、お客さん。」という。
「はい?」と、私たち。
「前にもあったんですよ、年末、急にボイラーが壊れたって修理を頼まれたこと。」
「あ、はい・・・。」
なぜだろう、あの力のこもっていない、真っ平な声にうっすらと熱を感じるのは、と思った矢先、彼は使った工具を手にしたまま腰に手を当て、今までの印象を覆すように滔々と話をし始める。
「修理費をそのあと請求したんですよ、郵便でね。そりゃもう年末だったから年明け、正月明けですよ。僕ね、ちゃんと送ったんです、修理代。年末に駆けつけて大変だったし、その出張費も少し上乗せしてね。そりゃあ当然じゃないですか。でもね、忘れられちゃったんですよ、半年も!」
半年も!って部分だけ、声が膨らむ。
何かちょっとキャラクターすら変化したようにも見えるお兄さんに困惑する私と夫。
「・・・半年、ですか。」
ようやく言葉を絞り出す夫。
「もうね、お客さんも絶対に忘れちゃいますよ、僕が修理代を送っても。」
「いや、そんなことは・・・。」
「いいや、忘れちゃいますね、絶対。年末ですから。みんな忙しいでしょう。正月来るでしょう、で、開けるでしょう。会社の地味な便箋が届いたところで気に留めないんですよ、もう。」
世間の大概の人が仕事納めをし、各家庭でお正月を迎える準備に追われているであろうこの日に、作業着で工具箱を持って修理に来てくれた彼のこのぼやきを私たちは彼を慰めるように何度も頷きながら、聞いた。
夫は何度も「忘れませんよ、払いますよ。」と言葉を繰り返し、これだけ言われれば忘れることはないだろうと思ったに違いない。が、この時の私は少し違っていた。ふと、嫌な予感が頭を鈍い影のようによぎるのだ。
「修理のお兄さんの言う通りに、忘れちゃうかも、ねぇ・・・」
私は自然療法士の資格を持っているが、当時はその自然療法士になったばかりで、技術を高めるために様々なスキルを得ようといろんなスクールやセミナーに通っていた。そのうちのひとつに、イメージを実現化する、というセミナーがあった。
強くイメージしたことは現実化する、ということを理にかなった方法論と説明で勉強していたのだが、その中に、言葉に出したことは実現化する、というものがあった。
例えば、私はアイドルになりたいと口にすればするほど、その願いは叶いやすくなるというもので、実現させたいと思ったことはまずは言葉にして声に出すと、その願いを聞いた周囲の誰かが「アイドル募集の応募があるよ。」とか、アイドルになるための情報があちこちから本人のもとに集まってくる、というもの。
さらには、そこに、匂いや味、音といった五感を付け加えるとさらに願いは叶いやすくなる、という。
実は、私もイメージを実現させた経験がある。
私は10代である新人賞に入選し小説家としてデビューをしたことがあるのだが、そのときに、毎日原稿を書くのはもちろんのこと、毎夜毎夜、寝落ちする間に小説家になった自分を想像していた。
書いた小説が本になり地元の本屋に並ぶ映像、とか、小説家になって家族が喜んでくれた映像など、イメージした映像は様々で、夢が叶った時の幸福感を味わいたくてやっていた習慣だった。
それが、数十年経ち10代の私がやっていたことは「イメージで夢を実現化させる方法」だったんだと知ったときは、驚いたと同時にその力をすぐさま信じるに至ったのだけれど、一見、奇跡、絵空事、スピリチュアルな世界に見えるこの方法は、リアルに使える実現化の手助けになることを経験からも私は否定していない。
しかしこの方法は、夢や希望を叶える方法のみに有効、というわけではない。
心が受けるトラウマと呼ばれる心の外傷は、身体的な暴力だけでなく言葉の暴力であっても心に傷を負う。血は流れないけれどこの傷の痛みはひどく、奥深くまで響く。
実際、言葉の暴力で受けた傷を何十年と抱え、その傷に翻弄され続ける人は多い。
夢を叶えるのも、心に負う傷も、言葉がキーワードとなる。
それほど、私たちが普段なにげなく使っている言葉にはパワー、力があるのだ。
その力とは、動力、動かす力であり、現実を変え、心の形をも変えていく。
さあ、ここで、大晦日前日の我が家の給湯器前に戻ろうか。
ぶっ壊れた給湯器を救世主ばりに直してくれた、年末の店番を任されたであろう男性は、幾度となく私たちに「請求書を出しても、忘れます!」と言葉を浴びせてくれた。それはきっと彼は「忘れてほしくないから言っているんです!」ということだろう。だからこそ、フラットな声音に高低をつけ、寒い年末、忙しい年末に給湯器のある野外に私たち夫婦を立たせ、忘れんなよ!と言わんばかりに何度も何度も伝えてくれたのだろう。
本当よね、忘れないようにしよう!年の瀬の忙しい最中に来てくれたんだもの、忘れたらバチが当たりますよ、と、私たち夫婦は元気を取り戻した給湯器が作り出した湯船に浸かりながら互いに言い合った。
が、言葉がイメージを実現させるという法則は、こんなところでも効力を発揮してしまうのだ。プラスのイメージも、マイナスのイメージも、イメージを実現化させる法則に区別はないのだ。
私たちは年明け早々に届いた請求書の入った茶封筒を、あろうことか引き出しにしまい込み、すっかり忘れてしまったのでした。
そう。
修理のお兄さんは、給湯器を直すという日常で起きる些細な出来事で、セミナーを設けて人様に教えているほどの秘策「イメージを実現化する方法」を実行していたのだ。
修理に来てくれたお兄さんは、顧客が忘れるというイメージ、映像を「請求書が届いても忘れてしまう。」という言葉で表現し、私たちの脳に聞かし続けたことによって、お兄さんのイメージは実現化したわけ。
しかし、ここは忘れてしまった私たちが迂闊で、悪いだけ。請求書が届いていることを忘れた私たち、引き出しにしまいこんだ、今、こうしてキーボードを打つこの手が悪いのです!!
ただね、この日常で起きる些細な出来事、申し訳ない記憶の中にも教訓が隠れているんです、と見苦しくも言い訳してますが、この事を機に、言葉の威力、パワーというのを甘く見なくなったのは本当。
夢を叶えた経験を持ち、イメージの実現化を教えるセミナーに通った身であってもなお、日頃、息を吸う吐くほどに手軽に使っている言葉に対して、貴重な宝石を手のひらで丁寧に扱うような気持ちは持っていなかった。
それが、言われ続けた言葉を無意識に脳に思い描き、実行してしまう人の不思議にも感じる心理と行動に深く深く関わってくる”言葉”が、どれほどのパワーを潜ませているのかを、請求された修理代を指定された口座に急いで振り込みながら、反省がもたらす痛みと共に感じたのでした。
以前、開いていた自然療法のセミナーの中で、よく受講生に言っていたのが、言葉の選び方のコツ。
嫌い、ではなく、好きではない、とか、悪い、ではなく、良くない、といった、ちょっとした言葉選びの方法です。悪いというより、良くないの方が当たりがいいというか、悪いというワードを使わない方がいいですよね、という感じで、言い方次第で表現やイメージの違いが出てきますよ、というもの。
私たちは言葉を音で表現することが日常的で、頭の中で言う言葉も、書いた文字ではなく、音で表現されています。
この”音”は「音波」とも言いますが、この”波”がつくものというのは(例えば、電波、光波、電磁波など)その文字通り、空間を波打ちながら響き、伝わり広がっていきます。これは、私たちが耳で音を聞く仕組みでも分かると思いますが、発せられた音が空気を揺らし、耳の奥にある鼓膜にその振動が伝わり揺らすことで音を聞いていますよね。
請求書を忘れてほしくなった修理のお兄さん。
忘れてしまうという言葉の代わりに「請求書が届くので覚えていてほしい。」とか「請求書が届いたら払ってください。」と言えば、ひょっとしたら私たちは忘れなかったかもしれない。・・・自分の落ち度を棚に上げて今、書いておりますが、重々、自分が悪い・・・いや、良くないことは分かっております。
今、あなたの家族に、大切な人に。
「きょうも気をつけて、怪我しないようにいってらっしゃい。」ではなく。
「きょうも気をつけて、元気でいってらっしゃい。」と言ったら、元気と綴られたあなたの声は、元気という振動と共に家族に届き、響き揺らされ、その家族が元気に過ごせるかもしれないですよね。
ショックなこと、嫌なことが起きて落ち込む自分に。
「私なんて、ダメなやつだ。」より、「ショックだったね、嫌だったね、なのによく頑張った、よく踏ん張った私。」と言葉をかけるか。
日常の些細なことであるはずなのに、その些細は実は重大な何かを背中に持っていて私たちを変えていくと、修理のお兄さんから教わったのでした。
でもまあ、届いた請求書などの大事な書類は、ちゃんと目立つ場所に管理しておきましょうね、自分!