わがままと言われて育ったら運命的な出会いをした
何かというと「わがままなんだから!」と言われて私は育った。
子供時代なら誰しもよくあることだと思うが・・・って、あるよね?私だけか?ちょっと不安だけど、あるとしておこう。
ともだちから最近できた塾に通い始めたと聞く。
「なにそれ?どんなことやるの?どこにあるの?」と、小学生の私は興味津々。
「算数だよ。行くと飴くれるの。」
「いーなー。私も行きたい。」
塾というところの情報よりも飴がもらえるという事実に惹かれるところからも分かる通り、さほど地頭がいいわけではなかった子供時代。塾の時間だから帰るというともだちの後を迷惑にもついていく。
「せんせー!ともだちが来たいって言うから連れてきたー」と、先生が待つ塾の入り口でともだちが叫ぶ。ともだちの裏にはへらへら笑う、あんまり賢く見えない子供(私)がひとり。
塾の先生はきっと、カモがやってきたと思ったに違いない。飴のひとつやふたつ
入会後に支払われる月々の塾代を思えばお安いものだろう。
案の定、塾の先生は飴をポケットから出して私の手に握らせ、「勉強したければ親御さんに言いなさないね。」と笑った。
手渡された飴を手にひらで感じながら、私はすでに塾へ通うイメージが出来上がっている。親が反対するなんてことは微塵も考えていない。学校の教室とはまるで違う椅子と机、生徒たちが座る塾の教室を見つめ、このことを両親に話そうとすぐさま家に帰り、塾に入りたい旨を伝えた。
両親からの返事は、この流れからいって想像がつくと思うのだが、「だめ、わがまま、自分の思う通りになるなんてことはない。」だった。そしてすでにもう、両親は怒りモードだ。なぜかといえば、私はともだちやら何やらの影響を受けては、あれが欲しい、行きたい、やりたいをよく言っていたようで、それを、わがままなことを言う子供、と捉えられていたようだ。それらの詳細は覚えていないけれど、そのたびに「わがまま」と怒られていたと思う。
あるとき、兄が両親の仕事を手伝い小遣いをもらっていた。
小遣いをもらえるなんて!と私も手伝いを申し出た。日頃、玄関を箒ではくぐらいの手伝いでは小遣いなんぞもらえなかったから、それは嬉しくもやりがいのあるお手伝いである。建築業を生業としていたので資材のネジのような小さなものをまとめるといった子供でもできる仕事だったと思う。手伝ったのだからお小遣いをもらえると思っていたので、夕食時にニッコニコで両手を差し出したら、思い切り怒られた。
理由はこうだ。「小遣いをやるほど手伝ってはいない!」だ。
特に母親が鬼のように怒っていたのだが、兄の手伝いと私の手伝いに、どんな違いがあって小遣いをもらえないのかがよく分からなかった。その疑問をそのままぶつけると、はい、ほらこれが決め台詞よとばかりに「わがまま!」と怒鳴られた。
正直いえば、私の何がわがまま認定を受けたのか、いまだによく分からなかったりする。
と言うのも、のちに私も子供を育てたが、子供とは自らの要求を言うのが仕事というような感じで「あれがやりたい。」「これが食べたい。」「欲しい!」と要求をよく伝えてくる。もちろん、それら全てに応えることは不可能ではあるけれど、私の両親のように「わがまま!」と子供を叱りつけるタイミングは一度もなかったからだ。
何かの要求、要望を伝えられたら子供に理由を聞いたし、その要求を聞き入れられない場合は、なぜダメなのかを子供に話した。そうすれば子供は理解をしたので叱る理由はなかったのだ。
まあ、そんなふうに頭ごなしに怒られ「おまえはわがままなんだから。」と言われ続けたことで、子供の頃の私はこの「わがまま」というワードに敏感になっていた。
わがままって、結局どんなもの?具体的な例題ありますか?と両親に尋ねる以前に、わがままだと両親が怒りそうなことをやってはいけないことだとただ理解。さらに子供なりに頭を働かせ、わがままと捉えかねないことは両親に言わなくなっていた。多分、その辺りが純粋な子供時代から、少しずつ大人になっていく思春期の入り口あたりだったのだと思う。
だから、だったかもしれない。
出会った時の衝撃音は、かなり大きく響いた。
「わがままジュリエット」
80年代から後半にかけて大人気だったロックバンド、BOφWYの曲。
今、50代から60代の人たちならば一度は耳にしたことがあるだろうし、好きだった人、ファンも多いと思う。
わがままはいけないこと。
と、インプットされた頭に「わがままジュリエット」は、ありえなかった。
なにしろ、わがままとはなんぞや、ということもよく知らず、ただ、両親から怒られること、最悪なことと思っていたから、そんなワードを曲のタイトルにするなんて!一体、どんな奴らなんだ!・・・と思ったかは知らないが、CDジャケットを私は、日が暮れて暗くなっていく忍び込んだ兄の部屋でしばらく見つめていた記憶がある。
家族や兄弟といった血の繋がった関係ではない人たち、他人と出会ったことで人生が変わった、助けられたという経験をしたことがある人は多いだろうと思う。
学校の先生、友人、会社の同僚や先輩など、血縁ではない誰かが自分の人生に深く入り込んでいくことは良くも悪くも起きる。
私の場合は、両親に恵まれた人生ではなかったので、他人から救われると感じることが多かったが、ボウイ、さらには音楽との出会いは、他者が救ってくれる現象のひとつと私は思っている。
音楽。ロックバンドが奏でるロックと体と心にまで響くリズム。
「わがままジュリエット」を知ってから、私の毎日にボウイの音楽は食事と同じぐらい欠かせないものになった。
自室では常にボウイが流れ、聞かない日など1日たりともなかった。
当時は海外の映画に夢中で、映画の雑誌を買っていたけれど、ボウイを知ってからは音楽雑誌へと切り替わり、ボウイ以外のいろんなロックバンド、歌手とその音楽を、義務教育が教える学問なんぞ横に放り出し、恐ろしい速度で頭に叩き込んでいった。
なぜ、あれほどに惹かれたのか、具体的な理由はなんだろうと思いを巡らしてみたけれど、それはなんだか言葉にならなくて捉えどころがない。
けれど、あえていうなら、必要だったからということだと思う。
昭和の終盤、どこにでもある一般的な家庭の父親と母親として、おそらくあまり変わりのない普通の両親ではあったと思うが、それは、周囲に存在する親と比べればの話であって、私という子供から見たら、そうはならない。
私は生まれつき足に軽い障害を持って生まれたこともあり、父親に甘やかされて育った、という。育てられた本人にはその自覚はなく、それはつまり大事にされたということだと思っている。
それが、いつを契機にそうなったのか覚えていないのだが、大事にされた子供から「わがままな子供」に成り変わり、何か要求を伝えるたびに怒られるのだから子供の私も戸惑ったに違いない。
子供の成長に合わせ、なんでも両親にせがむ子供の自立を促す、なんていう成長過程を踏まえて育ててくれればよかったけれど、そんなものはないから、ぬるま湯に浸かってぬくぬくしていた子供が、いきなり極寒の地に放り込まれたようなものだもの。戸惑って当たり前だ。
わがままを一切言わなくなって思春期を迎えた頃。ボウイに出会う少し前だ。
何を思ったか、両親がわがままに暴走をはじめた。
どこにでもある話であるけれど、父親が不倫、それを許せなかった母は自殺未遂。一度は家庭に戻るが父は我慢できずに家を出て愛人の元へ逃避行。居場所が分からなかったから高校入学時に学校に提出する書類に、父、行方不明と書いた。
父と母。
それまで親という顔をしていたものが、ヒトの男と女の顔そのものとなって、互いの欲望を言い合い、発情期の猫みたいに感情を剥き出しにする様というのは、保護が必要な子供時代に見るにはきついものがある。言いようのない不安に陥り、私は自分の家が他人のものになる夢を見た(そして実際にそうなった)。私は今も自律神経が失調してしまうのだけど、発症したのもこの頃だ。そのためにはじめた今、流行りの呼吸法やら瞑想デビューは中学生という早さもちょっと自慢だったりする。
ロック音楽の特徴でもあると思うけれど、ボウイの音楽、当時のロックは、歌詞に励まされたり支えにもなったけれど、自分について考えることを促しもしてくれた。
私って何者?と自分自身についてよく考えたし、自分を内観するなんて思春期の王道みたいなこともやっていた。それほど生きていた現実や嫌で嫌で仕方なかったんだと思う。だから、ボウイは別世界へ連れていってくれる当時も今も大切なロックバンドだ。
もし、私がわがままな子供と言われて育たなければ、汚い兄の部屋でボウイのCDは見つけられなかったかもしれない。
だとすれば、両親のおかげと結論が出そうだが、そうはまったく思っていないので、きっと私は大丈夫だ、と思って今は幸せに生きている。
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