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母の免罪符ステーキとおまけのメロン
今年のお正月明け、新年のめでたい雰囲気がまだ残るなか「私の貴重なアルバイト代でステーキを奢るわ。」と珍しく万札の入った財布を掲げ、地元の美味しくて有名なステーキ屋に家族と出かけた。美味し過ぎてステーキを食べている家族の写真を撮っちゃうぐらいに宴が繰り広げられたのだけど、それ以降、ステーキ屋には行けていない。次はいつ行けるだろうねぇなんて娘と言い合っているが、また年に一度、七夕みたいな周期でステーキを頬張れるかもしれない・・・と思うほど、ステーキは憧れのごはんだ。だが、私は一度、この憧れごはん、ステーキ様に飽きた事がある。
飽き飽きごはんはステーキだけじゃなく、果物のメロンも飽き飽き食材に名を連ねた。それもただのメロンじゃない。高級なマスクメロンだ。苺も一度は飽きた。また苺ぉ〜?とほざく生意気な高校生が、私だ。
それにはこんな事情がある。
日曜日に母がいなくなった。
私が高校生の頃だ。
そろそろ夕飯の時刻という頃、台所の台にポンと置かれたステーキ肉を、兄とふたり呆然と眺めた。これは一体どういうことだ?と互いになったのだが、用意されたステーキ肉は寡黙ながらも「夕食よ、自分で焼きなさいね。」と呟いているようで、私たち兄弟はフライパンにガスコンロに乗せ、そのステーキ肉を焼いてふたりで食べた。
母のメモ書きなどはどこにもない。どこへ行ってくるとか、何時に帰ってくるかも分からなかった。
けれども不安に駆られるほど子供ではなかったし、当時は今のようにスマートフォンなど持っていなかったから母に連絡しようがない。食べ終わった皿を片付け、一晩寝た翌日の月曜日には何事もなかったような顔で家にいた。
本当に何事もなかったように過ごすので、私も母に「どこ行ってたの?」などと聞かなかった。兄も私と同様、質問などしない。ステーキが美味しかったとかそんな話もしない。日曜日という曜日とステーキはこの世に存在しないかのように、静かに無視し続けた。
しばらくするとまた、母はステーキ肉を置いていなくなった。そしてまた、何事もなかったように帰ってきていて、日常がうつらうつらと過ぎていく。
そしてまた、ステーキ肉が母の代わりに台所に鎮座している。そのうち、季節の果物を連れ立っていて、メロンや苺、葡萄といった高級な果物ばかりがごろごろとステーキの横に並んだ。
母親が留守になることに不安がるほど子供じゃないと言ったが、それは、察しがつく程度の大人にもなっているということだ。
私と兄は、母がいなくなる理由を薄々と勘づき、あえてそれを口にしないということで家庭内の静けさを保っていた。
ステーキ肉は塩胡椒を振ってから、焼いた。
高校生だったから、付き合わせのポテトだのクレソンだのなんて用意ができるわけがないので、肉汁が垂れる焼けたステーキだけを白い皿に乗せ、ナイフをぎりぎり音を立てながら切って食べた。
ほぼ毎週末、牛肉の塊を食べていたらどうなるか。
それは飽きるに決まっている。何か工夫を凝らして調理するなんて頭はなかったし、ステーキのタレなんて今ほど充実していないから、塩と胡椒だけの味付けお肉に飽き飽きとしていたふたりは、週末にステーキ肉を見ると「また〜。」と不満を垂れたものだ。
かといって、母に「飽きたから豚肉にして!」とは言えない。なぜなら、週末の日曜日は、この世に存在しないことになっている。母がいなくなることも暗黙のルールで了解され、それについて触れることはよしとされていないから、ステーキ肉に触れる事が一切できない。
ステーキの連れである果物はふたりで半分に分けて食べた。
果物は季節によって種類が違ったが、メロンがよく用意されていた。
母はメロンが好きだったのか?と思ったが、本人に聞くと「大嫌い。食べれない。」という。じゃあなんでメロン?って思ったが、メロンは次々と用意され続け、高級マスクメロンにも飽きた。
私たち兄弟は揃って頭が足りなかったので、メロンは食べられるだけ切りわけ、残りは冷蔵庫に!というコースを思いつかなかったためにメロン1個を半分に切り、それを一度に食べた。アホだ、飽きるに決まってる。
この頃、私たちには憧れのごはんが存在していた。
その憧れについて、ステーキを食べながら話すというのが日曜日のお決まりで、食べたいなぁと唇を肉の脂でテカテカにしながら話し合った。
憧れっていうからには、さぞかし珍しくて高級なもの?って思われた方には申し訳ないが、誰も憧れない、むしろ「まぢか!」って言うような内容となっている。
そのごはんとは、納豆を食べ終わった後のお皿。まずはそれを想像して欲しい。お皿の底には納豆のネバネバ成分だけが残っている。その味付きネバネバ成分にご飯を入れて絡め、食べるのだ。
恐ろしく粗末だ。
質素倹約な今の私でも、そんなことしない。
けれど、当時がそれがいちばんの憧れごはんであった。
それにはこんな理由がある。
私たち兄弟が小さい頃は、両親はとても仲が良く、父も母も必死に働いて一軒家を持ち会社を立ち上げた。ふたりとも両親が早くに亡くなっているから頼れる人もおらず、よく「箸一本だって自分たちで用意した。」と言っていた。
今みたいに子供を預ける場所などないから、学校が長期の休みに入ると子供たちだけで家にいたし、学校から帰宅すると誰もいないというのは当たり前。私が小学校の高学年になると、母の代わりに夕食を作ることもあった。すでに刻まれている挽肉を包丁で切るというボケた料理人(私)が作ったごはんを家族が喜んで食べてくれる日もあって、それはそれは、幸せな家庭であったと記憶している。
その、粗末なごはん、納豆のお皿にご飯を入れて食べるというのは、そんな貧しくとも楽しい我が家の時代に食べていたものだった。
朝食といっても納豆と味噌汁ぐらいの食卓で、皿にもった納豆を4人で分けていただく。そして最後に、おかわり分のご飯を納豆のお皿に誰が入れるかで、4人でジャンケンをした。勝った人が食べる権利をもらえ、勝者は納豆皿を手に取り納豆のタレがついたご飯を頬張る。そんな粗末なごはんが、ステーキよりもメロンよりも、美味しいと私たちは思っていた。
兄も私も、気づいていても口にはしなかったが、両親のいない食卓が私たちは寂しかった。
いくら美味しい高級なお肉でも果物でも埋まらない寂しさを、食卓に感じていた。だからこそ、あのお金がなかった時代に食べていた納豆が、何よりもおいしくご馳走だと思っていたのだ。
食事や食べ物というのは、そこに心の模様が見える事がある。
例えば、ストレスを強く感じている人というのは刺激を求める事が多いので、辛いものや肉、炭酸のようなシュワシュワとしたものを好む。苦いビールを飲んで「美味しい!」と思う心模様は、ほろ苦い日常を送っていたり、子供から大人になった時期などに飲まれたりする。苦いものは子供は食べないでしょ。それが食べられるということは、大人になったなーと感じているということだそうだ。
ストレスが弱い時は魚や煮物などの和食を好む傾向があるし、依存度が強い時は、甘い乳製品をよく好む。
この知識は、私がとある施設で働いていた時に心理家から教わった事なのだが、甘いロイヤルミルクティーのペットボトルを直接飲んでいると、「哺乳瓶!誰かに甘えたいんだね。」と笑われたものだ。
食べ物は、栄養素、カロリーと単純に考えてしまうが、実はそればかりではない。
食べたいものを思い浮かべた時、かならずそこには、食べたい人の心の模様が映し出されている。食べる行為というのは生きるための行動ではあるが、それ以上の生きる意味や糧、心の栄養としても意味が込められている。
私と兄の納豆ごはんを求める心模様は、ただただ、子供として穏やかだった家庭を望む心であっただろうし、母の週末に揃えられるステーキ肉や果物などの高級食材は、子供に対する贖罪だったのだろう。
だから私たち子供は、母を思い、日曜日のステーキについて触れることは一度もなかった。静寂な無言を貫く優しさが互いに存在し、さりげなく、さりげなく、家族を思いやっていた愛が溢れる寂しい食卓だった。
私も親となり、子育てに一応のピリオドを打ってみて、母が用意したステーキ肉に込められた思いがよく分かるようになった。
離婚をし、子供を養育するお金を稼がなければならない時期に、母は懸命に働いて家事をこなしていた。が、人間はそれだけでは生きられない。息をつく場所、楽しめる場所がなければ、萎れてしまうに決まっている。だから、子供達が休日で家にいる日曜日に、どこかへ出かけ、ひとりの人間として、女性として息抜きをしていたのだろう。その理由も、何をしていたのかも分かっているけれど、私たち兄弟は今まで一度も、それについて言及したことはない。おそらく、母が亡くなるまで、そして私たちが死ぬまで、話すことはないだろうと思っている。
大切な人と過ごす、大切な時間をたいせつにする。
食卓まさにそれを具体化したものだろう。
食卓に並んだカロリーたちは消費されてなくなるけれど、食卓が描き出す栄養はずっと心に留まり、生涯に渡って人の支えになる。