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自分の進みたい道が決められる、という自由の裏にある苦しさと責任

 雲ひとつない青空を見上げることを辛く感じてしまう日々が続いてたここ最近。訳も分からずに涙が流れる。ほんとうになぜ、じぶんが涙を流しているのかすら分からない。ただただ大粒の涙が溢れてくる。そんな日々が4月末から5月頭にかけて続いた。辛かった。この感情をどこにもっていけばよいのかと。何をするにも頭が働かなければ手も動かなかった。

 今日。じぶんの気持ちを整理してみた。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだ油断はできない状況。それでも外の空気を吸いたいとおもい、三密を避け、マスクをしっかり着用して、都心へ向かった。あらためて思うが、わたしは外へ出ることがやっぱり好きだ。街中の空気を全身で感じながら、わたしはわたしの思考を整理してみた。

今日の思考。
「自由」ということばを聞いてあなたはどう思いますか?
わたしは、ネガティブな印象は抱きません。かと言って、ポジティブな印象も抱きません。
自由に好きな人とご飯べよう、自由に行動してみよう、振り返ればわたしが小さかった時から「自由」ということばはわたしと一緒だった気がします。
「自由」
わたしは「自由」ということばの裏にあるのはじぶんの「意志」だとおもいます。
「自分」はどうしたいか、という自分を主題にして考えることがとっても大切なんだとおもいます。
今日の主題にもしたように、わたしは多分「自由」ということばに苦しんでいるんだとおもいます。でもそこから抜け出すために何が必要なのかを見つけ出そうとしています。

「自由」の解釈をすこし限定してみようとおもいます。
とあるセミナーが開催されるとします。参加してもいいし参加しなくてもいい。でも、それが自分の研究している内容に関係するものだったり、話を聞いてみたい教授が登壇するのであれば、きっと強制的に参加するのではなく、自分の意志で参加するはずです。そして、その意志が貫徹できる理由は、誰からも束縛されない「参加する」という自由があるからだとおもいます。
カフェに行ったとします。新作のドリンクが飲みたい。だからそのドリンクを注文します。それも自由であり、「そのドリンクを飲みたい」というその人の意志でもあります。「自由」と「意志」はセットなんじゃないかな、とふとおもいました。自分の意志が通ずるとき、きっと人は自由であると(本人は直接的には感じていないかもしれませんが)、それはきっと自由に行動ができている、意志表示ができているという証拠だとおもうんです。そうした環境に当たり前のように存在するわたしはとても恵まれている。そのことを理解し感謝しています。

本題にもどります。
それじゃあ、なぜ「自由」ということばに苦しんでいるのか。それは「自由」であることが苦しいのではなくて、自由であるからこそ、自分の意志がはっきりしない、もしくは分かっていないという状況に対して時間を無駄にしているのではないかという漠然とした不安、じぶんに失望してばかりだという喪失感に浸ってしまっている。その状況が苦しいのではないか、と分析したわけです。
でもよく考えてみたら、意志がないわけではないのです。というか、人生の分岐点といわれるような時期にいようがいまいが、わたしは毎日意志をもって行動していることに気づきました。21年間生きてきて、いまのわたしがあるのは自分の意志があったからであり、その意志を意志だと気づかせてくれ、支えてくれた友人や家族や先生や環境がそばにいてくれたからです。

そしてここでもふと思いました。
意志をもった。つまり自分が進みたい、挑戦してみたいことを見つけた。それならば、その意志を通すための努力をしなければならない。じぶんの意志とどっぷり向き合いたいと思うことが大切なんじゃないか、と。

かんたんに答えが出ない問いに向き合うことはつらい。くるしい。だって、考えてもそんなかんたんに答えなんぞ、結果なんぞは出ないから。答えがほしい。結果がほしい。考えもせずに進むべき道が見えていたのならそんなに楽なことはない。でもきっとじぶんの意志はそこにはない。だってじぶんで切り開いていないから。

高校生だった頃を思い出す。高校3年間吹奏楽部に所属してバリトンサックスをはじめた。最初はマウスピースから音すら出なかった。肺活量が足りなくて楽器から音も出なかった。コーチから怒られたことも、やっぱり大変だからやめようかな、と思ったこともあった。でも基礎練習を続け、平日は放課後毎日、長期休暇中は1日中練習漬けの日々を過ごした。私服を着た日数なんて数えられるほどしかなくて、制服を着てた記憶しかない。襟や袖は黄ばんでいたけどね。

そうした練習の日々を積み重ねて、いつの間にか一曲吹けるようになった。音も安定して演奏全体を支えられるまでになりました。それは、わたしが練習という名の努力を3年間続けたから。じぶんの意志で。バリトンが好きだ、合奏が好きだ、吹部が好きだ、仲間が好きだ、バリトンもっと上手く吹けるようになりたい、と言うじぶんの意志があったから。そして、その意志をのびのびと発揮できる自由な環境があったから。だからわたしはじぶんの意志を突き通すことができた。その意志と向き合うことがすごく楽しかったんだなと、濃厚でほんとうに楽しい毎日だったんだなあと。そう振り返っています。じぶんの人生史に一生残る。肉となり血となる。じぶんの一部になっているんです。

ほんのわずかでも意志をもったのなら、そしてそれを最大限に発揮できる自由があるのなら、それを貫徹するための努力を続けることは本当に必要なことだし大切なことだと思います。

決めるのはじぶん、それを実行して結果を出すのもじぶん。その全てに責任を持つのもじぶん。じぶんがその意思をもったのならば、初志貫徹してみよう。違うな、と思った時には方向転換してみてもいい。そこで新たな何かが見つかるかもしれないから。
でもこれだけは。
自由な環境がある。じぶんの意志が生まれる瞬間が何度もある。それを無視したり、塞ぎ込んだり、楽な方法で達成しようとしたり、努力を怠るのは違う気がします。

長くなってしまった。
さて、もう一度わたし自身に問います。あなたの意志は?あなたがほんとうにやりたいことは何ですか?
もう答えが出ているはずだよ。意志があるはずだよ。その意志を貫徹しよう。努力する、苦しくて辛いことに向き合う。それでも、意志が貫徹されるのは、そうした瞬間を過ごした人だけだと思う。そしてそんな人にわたしは成りたいよ。じぶんの意志をもってこの人生を生きていきたいと思うよ。

今日の帰り道。
ふと見上げたらぶ厚い雲の隙間から太陽が顔をだしていた。まるでそのときの自分のこころの中のようだった。ちょっとは口角が自然に上がって、足取りも軽くなった気がした。

ながいながい思考のアウトプット。
ここまで読んでくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

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