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マイ・ライフ #1

これまでの人生について振り返ってみようと思います。長くなりそうなので、いくつかに分けて投稿します。


大学まで

生まれは兵庫県伊丹市、戸籍は福岡県京都郡みやこ町と、父親の戸籍を移さず今まできました。現在はマイナンバーカードで戸籍謄本が取れるようになったので、あまり不自由は感じていません。

息子(現在14歳)。父親の遺伝子が強すぎて、小さい頃よく似ていると言われました
私(現在50歳)
娘(現在20歳)

小さい頃は泣き虫で、中学生まで空手を習わされていました。嫌々ながら通っていましたが、今考えるとそのお陰で忍耐力がついたのだと思います。伊丹の公立小学校・中学校に行き、高校から私立の洛南高等学校(当時は男子校)に進学しました。伊丹から片道1.5時間かけて通学していたので、当然、帰宅部です。洛南は高野山での勉強合宿などもあり、勉強漬けの3年間でした。彼女が欲しい年頃だったので、共学に行かなかったことが悔やまれます。当時の洛南はほとんど京都大学に進学していたので、周りに流されて京都大学工学部土木工学科に進学。極力大学に行かずに単位を取得する方法ばかり考え、バイトと遊びに明け暮れて、要領良く生き抜く力が身に付きました……というのは自慢になりませんが、そんな感じです。4年で卒業しても良かったのですが、就職活動が大変そうだったので、京都大学大学院土木システム工学科を修了した後、大阪市役所の技術職として採用されました。社会人生活は公務員としてスタートを切ります。

公務員時代(1999〜2012)

公務員時代は、土木技術職として主に都市開発を担当しました。公務員というと区役所の窓口業務をまず思い浮かべる方も多いかと思いますが、私は現場を渡り歩いた部類です。
大阪市役所に入った当時は同期が100人以上おり、新人研修で沢山の知り合いができました。数カ月の新人研修を経て配属先が決定するのですが、私はまず阿倍野再開発事務所に所属となりました。同期の多くが淀屋橋にある本庁配属になる中、取り残された気分でしたが、いきなり現場経験をすることにより、心身ともに鍛えられました。

入社3年後、港湾局に転属。WTCビル39階が職場でしたので、大阪港を一望できる環境でしたが、初めのうちは高層エレベーターの耳鳴りに悩まされた記憶があります。港湾計画を担当させて頂いたので、あまり馴染みのなかった大阪港について詳しくなりました。
その後、大阪駅北地区(1期:現グランフロント、2期:現グラングリーン大阪)、高速道路(淀川左岸線)、UR都市機構、区画整理事務所と2~3年毎に違う現場を渡り歩き、都市開発に関すること全般を経験させて頂きました。お陰様で土木マインド(強靭な肉体とメンタル)が身についたと思いますが、疲労困憊状態でしたので転職を考え始めました。

大学時代にしていたバイトの先輩がちょうど弁理士をしていたので、色々アドバイスをもらった上で、35歳の時に弁理士の試験勉強を始めました。
38歳の時に弁理士試験に合格し、転職する決意が固まりました。

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