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昨今のウマ

市原氏

もうすぐ夏休み! ですね。

豊かな「無」をすごされますように。

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前回のお手紙を拝読して,おそらく20年,いやもしかすると30年ちかく前に目にした,故・ナンシー関氏の作品とコラムを思い出していました。

それは,「閉じた目に涙を滲ませた女性が,うっすらと笑みを浮かべ "泣けるわぁ…" とつぶやいている様子」を描いた消しゴムハンコ絵とともに掲載された,「感動コンテンツで泣いてスッキリしたいヒトビト」を氏ならではの切れ味でズバンズバンと袈裟斬りにしていく,痛快なコラムだったと記憶しています。

「泣くために,泣けるコンテンツを探す」。なるほど,あれは市原さんが前回お送りくださったお手紙でいうところの

自分の中にあるストーリーが次に求めている物事を「検索」して、自分の物語としておさまりのよい物事を選んで観測しにいく。

こちら。「タグる」の二つ目の用法だわねえ…とひとり納得した次第です。

それにしても,

#泣ける #号泣 #感動 #生きるって素晴らしい  

あたりでタグりたいというニーズって,ずいぶん昔からあるんだなあと思わなくもありません。

個人的には,ふと目に入ったときに「なんとなく相性よさそうだナー」程度の印象からはじめるのが性に合っているので,作品さがしにタグったこと,あまりありません。

あっ,でも。「それはそれは素晴らしいファンタジー作品である」という誰かの感想に惹かれるまま,前情報ゼロで視聴した映画『パンズ・ラビリンス』に,もんのすごいショックをうけ,がっつりトラウマになる…という経験がありますそういえば。いや,誤解のないように申し上げますと,たしかに素晴らしい作品でした。でもね,二度と見ない(同じ監督の作品『パシフィック・リム』はすごく相性よかったのですけどもねえ…)。 

そういう不幸な事故を減らすうえで,具体的なタグというのは,やはり便利ではあるのかもしれません。

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タグ検索と似て非なるモノとして「辞書を引くこと」についてぼんやりと考えていました。

調べたい語にたどり着いたはずが,その近くに並ぶ別の語が気になって,そちらの解説文を読んでいるうちに「そういえば,あの単語って…」と,どんどん別の語を連想ゲームよろしく調べだしてしまって,気づけば時間が消し飛んでいた,みたいなこと。ありますよね。

たぶんタグ検索でも同じようなことは起こりうるんでしょうけど,タグの設定主は「泣ける」のとなりに,あんまり関係ない語は配置しないでしょうから(「投げやり」とか。「ナゲット」とか。「投げ銭」とか。あ,「投げ銭」はありうるか),上記のような連想ゲームは発生しづらいかな,とは思います。

でも,脳内の検索システムって,タグ型のクセにけっこう「辞書検索寄り」というか。探していたものとはまったく無関係な記憶が「ぽこっ」と芋づる式に飛び出たりしませんか。さつま芋を掘ってたはずなのに,突如オクラがでてきて「いや,オクラて」って驚く的な。

あれはいったいどういうエラー(?)なんでしょうね。そして,どういう意味があるんでしょうねえ。

生物の進化には遺伝子複製時のエラーが関係しているらしい,という,たいへん雑な理解を雑なままに保持していますが,記憶のタグ付け時のエラーは思考パタンの進化に関与していていたり…して…?

などと,今日もまた,ぼんやりと,雑に,連想ゲームをしていました。時間が消し飛びました。たのしかったです。


*「馬っコ」といえば,数ヶ月前からトレーナー業をはじめ,ちまちま育てています。うまだっち。

(2021.9.17 西野→市原)