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短編小説 |心室細動2/6
優秀な外科医の悲劇
ユスフ・コーエンの指先が、患者の心臓の上で舞うように動いた。手術室の緊張感漂う空気の中、彼の動きには迷いがなかった。複雑な先天性心疾患を抱える10歳の少女の命が、今この瞬間、彼の手にかかっていた。
「コーエン法」と呼ばれる革新的な心臓手術技術を駆使し、ユスフは慎重に手術を進めていく。この技術は、心臓の弁膜症や複雑な先天性心疾患に対して、より安全で効果的なアプローチを可能にするものだった。ユスフが長年の研究と経験を積み重ねて開発したこの方法は、世界中の医学界で高く評価されていた。
「血圧安定。心拍数正常範囲内です」看護師の声が静かに響く。ユスフは僅かに頷き、さらに集中力を高める。彼の手元では、ミリ単位の精度で心臓の組織が修復されていく。
3時間後、手術は成功裏に終わった。ユスフは額の汗を拭いながら、安堵の表情を浮かべる。「彼女は元気に回復するでしょう」と、待機室で不安そうな表情を浮かべる両親に告げると、その顔に喜びの涙が溢れた。
手術着を脱ぎながら、ユスフは今日一日の予定を頭の中で整理する。午後には医学部での講義があり、夕方には新しい手術技術に関する論文の執筆を進める予定だった。忙しい日々だが、彼はこの生活に充実感を覚えていた。
医局に戻ると、机の上に置かれた家族写真が目に入る。妻マリアと息子ダニエルの笑顔が、彼の心を温かく包み込む。特にダニエルの笑顔は、ユスフにとって何よりの癒しだった。
ダニエルは今年18歳。大学進学を控え、将来の夢について熱く語る息子の姿に、ユスフは誇りを感じていた。「僕も父さんみたいに、人の命を救う仕事がしたいんだ」そう言うダニエルの目は、希望に満ち溢れていた。
ユスフは息子の成長を見守りながら、自分の若かりし頃を思い出していた。イスラエルとパレスチナの緊張が高まる中、ユダヤ教徒として育った彼は、常に平和を願っていた。そして、人種や宗教の壁を越えて命を救う医師という道を選んだのだ。
その決意は、今も彼の心の中で強く生き続けていた。ユスフの患者には、ユダヤ人もアラブ人もいた。彼にとって、救うべき命に違いはなかった。その姿勢が、彼を世界的に有名な心臓外科医へと押し上げたのだった。
午後の講義で、ユスフは熱心に聴講する医学生たちの前に立つ。「諸君、医療技術はどんなに進歩しても、最後に患者の命を左右するのは、君たち一人一人の良心と決断力だ」彼の言葉に、学生たちは真剣な表情で頷いた。
講義を終え、論文の執筆に取り掛かろうとした時、携帯電話が鳴った。見知らぬ番号からだった。「もしもし、コーエン先生でしょうか」聞き覚えのない男性の声。「はい、そうですが」ユスフが答えると、その声は重々しく続いた。「お話しなければならないことがあります。息子さんのことで...」
ユスフの心臓が激しく鼓動を打ち始めた。「ダニエルが...?何かあったんですか?」声が震える。電話の向こうの男性は、慎重に言葉を選びながら話し始めた。「息子さんが事故に遭われました。今、市立病院に搬送されています」
その瞬間、ユスフの世界が止まったかのように感じた。「事故?どんな...?」言葉が途切れる。「詳しいことは病院でお話しします。できるだけ早くお越しください」
電話を切ると同時に、ユスフは荷物をまとめ始めた。頭の中は真っ白になりながらも、医師としての冷静さを保とうと必死だった。「ダニエルは大丈夫だ。必ず大丈夫だ」自分に言い聞かせながら、病院へと急いだ。
市立病院に到着すると、そこにはすでに妻のマリアが待っていた。涙に濡れた顔で夫を見つめる妻を抱きしめながら、ユスフは状況を確認しようとした。
「交通事故だったそうです」看護師が静かに説明を始めた。「横断歩道を渡っていた時に、スピードを出していた車にはねられて...」その言葉を聞きながら、ユスフの頭の中では、朝見た息子の笑顔が繰り返し浮かんでは消えていった。
「今、緊急手術中です。最善を尽くしていますが...」看護師の言葉が途切れる。ユスフは思わず叫びそうになるのを必死に抑えた。「私が...私が執刀します」震える声で言う。しかし、看護師は静かに首を振った。「申し訳ありません。ご家族の方は手術室に入れません」
その言葉に、ユスフは激しい無力感に襲われた。数え切れないほどの命を救ってきた自分の手が、最愛の息子の命を救うことができないという現実。それは、彼にとって耐え難い苦痛だった。
長い時間が過ぎ、ようやく手術室のドアが開いた。出てきた医師の表情を見た瞬間、ユスフは全てを悟った。「申し訳ありません。全力を尽くしましたが...」
その瞬間、ユスフの世界は音もなく崩れ去った。妻のマリアの悲痛な叫び声が遠くで聞こえる。しかし、ユスフの耳には何も入ってこなかった。ただ、朝見た息子の笑顔が、繰り返し脳裏に浮かんでは消えていくだけだった。
数日後、ダニエルの葬儀が行われた。多くの人々が参列し、若き命の突然の喪失を悼んだ。ユスフは石のように硬い表情で立っていた。涙を流すことさえできなかった。
葬儀の後、警察から連絡があった。「事故の詳細が分かりました」刑事の声には、何か暗い影が感じられた。「ひき逃げ犯を特定しました。しかし...」刑事は言葉を選びながら続けた。「犯人は政府高官の息子でした。すでに国外に逃亡しているようです」
その言葉を聞いた瞬間、ユスフの中で何かが壊れた。長年信じてきた正義、社会の秩序、全てが一瞬にして崩れ去った。息子を奪った犯人が、権力によって守られる。その現実に、彼の心は激しい怒りと絶望で満たされていった。
それからのユスフは、まるで別人のように変わってしまった。かつての温厚な医師の面影はなく、冷たい眼差しで世界を見つめるようになった。仕事には精を出したが、その動機は変わってしまった。もはや命を救うことへの純粋な情熱ではなく、何か別のものが彼を突き動かしていた。
ある夜、ユスフは自宅の書斎に籠もっていた。机の上には、息子の写真と並んで、ある設計図が広げられていた。それは、彼の医学的知識を駆使した、ある危険な装置の設計図だった。その瞬間、書斎のドアがノックされた。
「ユスフ、大丈夫?」妻のマリアの声。ユスフは慌てて設計図を隠し、「ああ、大丈夫だ。少し仕事をしていただけだ」と答えた。しかし、その声には以前のような温かみがなかった。
マリアが去った後、ユスフは再び設計図を広げた。その目には、かつての慈愛に満ちた医師の面影はなく、何か別のものが宿っていた。復讐心か、正義感か、それとも単なる狂気か。彼自身にもわからなかった。
ただ一つ確かなことは、優秀な心臓外科医ユスフ・コーエンの人生が、息子の死をきっかけに大きく歪み始めていたということだった。そして、その歪みが彼をどこへ導くのか、誰にも予測することはできなかった。
夜が更けていく中、ユスフの指先は再び動き始めた。しかし今度は、命を救うためではなく、何か別の目的のために...。