徳田秋聲 短編3作 「或売笑婦の話」「きのこ」「折鞄」
なんだか可笑しい。どこか哀しい。最後に、ほのかな愛おしさ。
「折鞄」から、私の好きな場面。
大正の末頃の大晦日。主人公の融(とおる)は、友人夫妻と、風月堂で夕食をとる。
「これは旨いんだらうかね」融はカリーフラワを食べながら言つた。
「こんなものちつともおいしくはありませんわ。」夫人は若い娘のやうに言つた。
(略)
「ここのビステーキが有名なんださうだ。」
「ビステーキは確かに好いな。まあ食つたあとの腹工合の好いところを見ると、調理の好いことだけはわかるやうだ。さう云ふ点が好いんぢやないかな。」
(仮名遣いは原文のまま。漢字は一部平仮名にした。)
この会話のどうでもよさ。「そういう点がいいんじゃないかな」。日常会話の無責任さ。こんな些末なおかしさを切り取る筆。いいなぁ。
今回読んだ3作の主人公には、共通した雰囲気がある。どの人物も、特に強烈な自我はないが、なんだか親しみを感じさせる。(「きのこ」「折鞄」については、秋聲自身が投影された人物と思われる。)そして、その人生における一場面を淡々と描写する。
「或売笑婦の話」は遊女の失恋、「きのこ」は母の死、「折鞄」は妻の死に関する顛末である。だが、その出来事に集中するのではなく、主人公の人柄や感情の輪郭をなぞる。
そのアプローチを可能にしているのは、たぶん、具体的な「もの」だと思う。たとえば、遊郭の台所道具や花魁の身の回り品。たとえば、母が食べた松茸。たとえば、書類鞄。そうした小道具を取り込むことで、漠然としたイメージに形が備わる。
どうでもいいけど、カリーフラワ(カリフラワーのことだと思う)って、確かに「うまいんだろうかね」。