煮込みの時間

 弁当を作る機会が増えた。健康のため、と優等生回答をしたいところだが、春先に清水の舞台から飛び降りたため(1)、節約生活まっしぐらなのである。決まって入れるおかずは、「薄め短冊切りの人参とこんにゃくの煮物」。週末に1週間分まとめて作る。短冊切りは微妙に手間がかかるが(2)、煮込む時間はショートカットできる。弁当に入れるなら葉物など水気の多いものは厳しいが、人参とこんにゃくなら安心だ。醤油、酒、みりんだけのお手軽味付けも、調理のハードルを下げる。特段の好物というわけではない。まあ言ってみれば惰性で作っている。わては料理だけして生きとるわけやないんや。ある程度合理性を求めてしまっても仕方ないだろ、そうだろう?
 煮込みは難しい。あ、味付けやなんかが難しいという意味ではない(まあそれも計量嫌いのズボラ人間からすると難しいのだが)。煮込みに付随するスケジュールをしっかり確保して、煮込みに取り組むという心構えをし、いざ実行に移すことが難しいのである。煮込みはさすがに火をつけている以上、完全に目を離すわけにはいかない(PC仕事など、とある1つを放置しつつ、3つ4つのタスクを同時進行なんてざらだ)。煮込みが煮込みに集中しろと言ってくる。わたしの場合、まずこんにゃくを灰汁抜きするというタスクをこなしたうえで、それなりに頑張って薄切りにした人参とこんにゃくを煮るわけだが、工程の初期段階、鍋のうえで人参とこんにゃくを木べらで炒めているまではいい(多動気味の身体からすれば、たとえそれが右腕の先っぽだけであっても、動かすことを求められるのは安心する)。その後調味料と水を入れ、ウェイト。あなただけ見つめてる約30分。……そんなの無理。多少移り気に他のこともするが、つらい。トランキーロ(3)。出来上がったら(=水分が飛んだら)タッパーに入れ、冷蔵保存のために、ひとまず粗熱をとらなくてはならない。正直、一番イライラさせられるのが、この粗熱である。粗熱はとれただろうか、もう大丈夫だろうと、タッパーを触って落ち込む。嗚呼、トランキーロ。
 煮込みは難しい。上述の工程を行う余裕――それはクロノロジカルな意味での時間の余裕であり、より体感的な意味での心身の余裕でもある――がないとき、わたしは煮込めなくなる。できたとしても、煮込みを待っている時間に、料理を含む家事という仕事は賃労働に比べ優先順位が低くなり、「こんなことをしている場合じゃない」という考えが浮かんでは沈み、しんどくなるのじゃな。煮込みをしない選択は、予防的なセルフケアに近い。そして時に「6時間煮込んだ豚骨スープ」、「12時間煮込んだシチュー」などの類に金を払う。いかにわたしは煮込みの時間を金で買っているのか愕然としつつ、わたしの代わりに煮込みに付き添うひとびとに思いを馳せるのである。煮込む時間通り、きちんと時給は支払われるのか云々。
 話が急展開するようで申し訳ないのだが、わたしにとっての煮込みはエイブリズム(Ableism;能力主義/健常主義)を考えるのに好例なのである。主に障害学において議論されるエイブリズムは、ここでは「「できない」ことより「できる」こと至上主義」と簡単に説明してしまおう。わかりやすい障害や診断名をもってはいないわたしが障害学の知見を簒奪するつもりはないという前提で話を進めると、いつでも煮込みができるよう準備万端の心身が「健常」な社会はちょっとしんどい(4)。言ってみればわたしは「煮込み障害スペクトラム」と言ったところか。ちゃんと煮込めるときもある。ちょっとだけ頑張って煮込みもどきになる(「鍋」という立派な料理です!)ときもある。煮込みを選択できないときも、もちろんある。人参とこんにゃくの煮込みが週のルーティンと化したいま、煮込みは確かに個人的なレベルで「ちゃんとできている」の指標となりつつある。しかし、それをエイブリズムと化さないよう、注意しなきゃなと思っているのでありますな。
 あ、やっと粗熱がとれましたよ。それでは今日はここまで。



(1) 念願のエレキを買いました。この話はまた今度。
(2) ついでに謹んで申し上げると、わたしはいまだに人参を上手に包丁で皮むきできない。というわけで、ピーラーのお力添えを賜るわけだが、現在日本で主流の家庭用野菜剥きピーラーの原型がつくられたのは、1947年のスイスでだそうだ(Zena社のREX)。そう考えると、非常に現代的な道具である。ちなみにREXはスイスの国民的発明として、2004年には郵便切手にまで登場している。とても愛らしい(かつ奇抜な)デザインなので、ぜひググってください。
(3) 新日本プロレス、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンの内藤哲也選手の名言を参照。
(4) エイブリズムと時間の問題については、Alison KaferのFeminist, Queer, Cripを念頭に置いている。ひとことで要約できないのですが、個人的にはめちゃくちゃ名著だと思います。

文責:むー

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