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人と同じ経験をすることを拒む性格

私は他人と同じ経験をすることを拒むタイプのようです。
理由は、他人は他人であり、自分はひとりしかいないからです。
仕事では、問題点や課題、あるいは企業の未来像を他人と共有しますが、個人の生き方を共有することはありません。
私は、他人と共有できる人生をもてない、と思って行動してきました。

人生を振り返ってみれば、私は自分の意思で行動してきましたから、うまくいったことも失敗したことも自分自身のものでしかありません。
人間は生きている前提が、人それぞれ違いますから、そもそも他人の経験を共有することなどできないのではないでしょうか。

息子たちからアドバイスを求められても、私は自分がみてきた狭い範囲のなかだけのことしか話ができません。
アドバイスをどのように受け入れるかどうかは、また息子たちの意思でしかありませんし、息子たち自身の行動で確かめていくしかありません。
親子であっても物事や考え方を共有することはなかなか大変なことです。
私は生き方を共有することよりも、息子たちが自分自身の判断で行動することを勧めています。

人生がうまくいくかどうかなど、誰にもわからないからです。
挑戦して失敗しても、私は誰かに泣きついたことがありません。
所詮、自分自身で解決していくしかないからです。
なにかの失敗をして実家に帰宅しても、両親からなにかサポートをしてもらったことはありません。
ただ、私のそばにいてくれただけです。
それがよかった、と思っています。

それでも母は、私のことがわからなくなったという手紙を結婚する直前に妻宛て書いていました。
今も妻は大切にとっているようですが。。。
母は、私を理解しようなどという無駄なことをしていたのです。
そもそも自分の分身とでも思っていたのでしょう。
誰しも他人(子供を含む)を理解することなど、本来、できないのですが、人間というくくりのなかで理解できると錯覚してしまうのではないでしょうか。

私たち夫婦は、息子たちが成長していく足掛かりを提供してきましたが、それでも息子たちは自分自身で考えて行動していった結果が今あるだけでしょう。
私自身の人生も同様に、両親の足掛かりを得ましたが、すべて自分の意思で行動し、あらゆる結果を受け入れてきました。
他人と違う選択を重ねていったことで自分らしい感性が生まれ、人間や物事には違いがあることを体得していくことができた、と私は思っています。
もちろん、ときに会社の配転という強制力が伴う選択もありましたが、それでも受け入れたのは自分自身です。

先週まで息子が住む信州にいましたが、妻がみる信州と私がみている信州は、まったく違うと思っています。
私には私の信州があり、妻には妻の信州、そして息子には息子の信州があるのです。
それぞれ違っていいのです。
私は妻や息子に私の信州感をおしつけることもありませんし、共有することもありません。

それぞれが楽しければよいのです。
人生の映像は、私自身の心のなかに刻み込むだけであり、簡単に他人と共有することなどできないというのが、私の前提でしょうか。
だからこそ、自分の人生にはオリジナリティがあり、人生を楽しく豊かにすることができるのではないか、と自ら考えながら行動してきました。
思考や思索を多くもつよりは、直感や体験(行動)を大切にする生き方だったかもわかりません。

noteは自分自身の体験や行動を綴っておくには、よいツールではないでしょうか。
やはり下手でも自分の言葉で自分の人生体験(行動)を書いておくことで自分らしさが残っていくからです。
なるべく他人と違うことを認めていくことこそが、案外、自分を大切にできることではないでしょうか。
自分を大切にする人は、また他人や動物、あるいは生き物を大切にできるような気がします。

私には、今だよくわかってはいませんが。。。
ただ、そう感ずるだけでしょうか。

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