ペンギンは神様の夢をみるか(ペンギン・ハイウェイ感想)

こんなに心をかき乱される物語は久しぶりに読んだ。

それが森見登美彦の小説であるのも新鮮な驚きだった。森見登美彦といえば腐れ大学生かじっとりホラーであると思っていたので。

胸のなかにぱちぱちとほろ苦いラムネがはじけているような、その微細な刺激が苦しいのに通り過ぎる清涼感がやみつきになって、ラムネを胸にずっと抱え込んでいたいような感覚が、読み終わってからもながく続いている。夏にふさわしい読み物をした。


主人公のアオヤマ少年。このたくさん思考する子どもは、たしかにフィクションでなければ成立しないような稀有な存在であるが、かれの存在は、ばかではなかったいつかの自分の実感にともなって、たいへん身近に感じるものである。アオヤマ君ほど多忙ではなくても、子どもは考えるし記憶するし思い出す。大人が思うほどには子どもはばかでも単純でもない、ということを、ペンギン・ハイウェイでは非常に丁寧に描かれていると思うものだ。

アオヤマ君は同学年の子どもと比べてより多くのことを経験し、あらゆる現象を自分の言葉で説明できる少年だが、ふとしたときに未経験に立ち止まり、その未知に自分のなかで説明を探すことがある。大人顔負けの聡明さを持ちながら、生きている年数の青くささ、みずみずしさが、明確に子どもであるという証明が、その一瞬に垣間見えるのがいい。アオヤマ君はひょっとしたら大人である読者よりもかしこいかもしれないが、ちゃんと子どもであるんですよと、流暢な文章にさりげなく置いておく手法はスマートですらある。

唐突に俗っぽい単語を出してしまうが、ペンギン・ハイウェイは正統派の、そして至高のおねショタ小説であると思う。アオヤマ少年は歯科医院のお姉さんに淡い恋をしている。恋をしているといっても、アオヤマ少年はふだんあれほど理論家であるにも関わらず自分の感情に明確な名前をつけない。それがかえってアオヤマ少年からお姉さんへの感情のとくべつさを表すようでもある。読者はアオヤマ少年がお姉さんへの感情を大切に丁重にそだてていくのを見守ることになる。恋という現象の、あたたかでやわらかな心地のよさ、そして焦燥に似た胸の詰まるせつなさを追体験する。

対してお姉さんは、アオヤマ少年に恋心を抱いてはいない。お姉さんは大人の分別をもってアオヤマ少年を的確に子どもとして扱い、そのうえでひとりの人間として尊重する。そこに恋心はないが、人間同士の関係のうえでもっとも重要なものがある。お姉さんはアオヤマ少年を子どもだからといって軽んじたり侮ったりしない。対等に話をし、対等にチェスをして、対等に秘密を打ち明ける。大人と子どもの立場をわきまえているから立場が必要なときにはそれを行使するが、お姉さんはアオヤマ少年を対等であると認めて向き合っている。だからこそアオヤマ君はお姉さんと一緒にいて楽しくいられる。

ところで、もしもお姉さんが本当は正しく人間であって、アオヤマ少年と同じ世界を生きることができていたら、アオヤマ少年の恋は叶っただろうか。私はこれは難しいものだと考える。大人と子どもの時間の流れはちがうので、アオヤマ君が大人になるまでの三千と八百だか七百だかの日数の間に、お姉さんは誰かほかの大人と恋愛をして結婚をしている可能性が高い。少なくとも小学生を大人になるまで待って恋愛対象とするよりは現実的である。お姉さんとアオヤマ少年が人間として対等であるということと、大人と子どもは恋愛対象として対等にはならないということは両立する。お姉さんは大人の分別をもってアオヤマ少年を子どもとして的確に扱う。だから、年齢差のぶんアオヤマ君の恋は圧倒的に不利である。

しかしお姉さんは人間ではなかったので、アオヤマ少年を唯一無二の存在と認めて特別な約束を交わした。アオヤマ少年のように聡明なハマモトさんでも、アオヤマ少年にそっくりな大人であるアオヤマ父でも、本物の研究者であるハマモト教授でもなく、いつかはえらくなるかもしれないけれどもまだ何者でもない、たくさん思考してナマイキでチェスの強いアオヤマ少年を選んで「私を見つけて、会いにおいでよ」と言った。アオヤマ少年はその理不尽で解明するのにどれくらいかかるかもわからない途方もない謎を前にして少しもためらわず「ぼくは会いに行きます」と宣言した。たとえばその理不尽な絶望の間際、おのれの天井をまだ知ることのない子どもの、理不尽に怯まないまっすぐな言葉はお姉さんの心に希望を灯したかもしれない。その瞬間のためにお姉さんにはアオヤマ少年が必要だったのかもしれない。恋ではないかもしれないが、このときお姉さんにとってもアオヤマ少年はお姉さんの運命になった。

私はお姉さんが消えてしまったことがたいへん悲しかったので、お姉さんとアオヤマ少年の関係性をいくら語ったとしても、お姉さんが人間でなくてよかったとはとても言えない。アオヤマ少年が初恋を散らせることになったとしても、お姉さんが人間として、アオヤマ少年と同じ世界で生きている世界線があるのならそっちのほうがよかっただろうとさえ思う。しかし、おたがいに唯一無二であるお姉さんとアオヤマ少年の、いわゆる「恋人」や「友人」、「家族」といったような既存の言葉では定義できない関係性の妙こそが尊いというのだと、私は考えるものだ。



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