肝要なるは高揚感(ランチア・デルタHFインテグラーレ“エボルツィオーネⅡ”)
こんにちは。クーラーは兎も角ヒーターが効かないのはしんどいことにそろそろ気づき始めた(っていう書き出しで投稿しようとしていたものの、今や送風の効かなさに呆れ団扇を仰ぐばかりの夏真っ盛り。はよ書け。)のりたまδです。まあ別にいんだけどさ。効かんくても。死なんし。
なんだかんだの第3回。ついに(?)私の“免許を取った理由”の回です。といっても大したことは書いてません。というか大したことを書いた試しがあったっけ?量もそれなりです。どうでもいい話の割合も多めです。というか10割どうでもいい話です。文字数を考えると水9麦茶1くらいの水で薄めすぎてほぼ水みたいな麦茶くらいうっすい内容です。タイトルで開いた方は「求めるは“公道を大手を振って走れるGr'A”」へ飛んでください。大したこと書いてませんけど。
英才(笑)教育
同い年の幼児が知育DVDとかボーネルンドのおもちゃでせっせと知を育んでいる間、私はハンドルコントローラーでセガラリー2をやり、古谷徹のナレーションを聴き、カーマガジンの白黒ページを読み、ボスコ・モトのVHSを寝落ちするまで取っ替え引っ替えしながら観ていました。(※1)
ラリーXやティーポ(編集部T時代)を読みつつ成長(?)し「クリオウイリアムズ、カッコいいなあ!」とか、「ラリー入門カテゴリのFFハッチバックとかアツい!」とか、「ラテン車のベーシックグレードに注目!」とか、着々と自動車大好きおじさんへの道(離合困難)を歩んでいくことになるんですが、10歳の誕生日の時、父親からありがたいお言葉を頂きます。
「あともう8年で免許取れるな!免許取ったらあの車お前にやるわ!」まあ今思えばそれはこれからののりたまδの自動車生活にひとつの枷をはめられることを意味していたのですが、バカなので当然そんなことには気づかない。冷静に考えたらこの言葉を胸にのりたまδは18歳までなんとか生きて、免許を取るに至ったのでした。はい前座の話おしまい。
鶏より卵?
注)長めです。飛ばしてよし。
次は車の説明に入りましょうか。また前座じゃん…
ランチア・デルタは1979年に発表されたBセグメントハッチバック。サイズ感的には最後のトヨタ・ヴィッツをややぺったんこにしたくらい。
前年にフィアットから発表されたリトモと同じプラットフォーム、パワートレーンを用いていますが、デザインはジョルジェット・ジウジアーロが担当しており、過去のマセラティのコンセプトカー、メディチⅡの縦横比を弄ったかのようなそのスタイリングは例によって前後数年にどこかで見たことがある気がします(※2)がなかなか端正。
フィアット傘下に入ってからのランチアとしてはベータ、ガンマに続く3台目の新型車であり、フィアットとの共通度は徐々に高くなりつつも内装にアルカンターラやミッソーニ製の生地などをはじめとした“よいもの”を多く使用するなどそこは由緒正しき上級自動車メーカーであるランチアらしく「小さな高級車」というべき車に仕上がっています。
翌年の1980年にはカー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、1982年には3速のオートマチック・トランスミッション搭載車を追加。そしてパワーウィンドウ、メタリックのペイント、ゼニア社(※3)がデザインしたファブリック張りのインテリアを誂えた“LX”という上級グレードを設定、同年にフェイスリフトが行われ(後述のSr'2)新たに設定された1.6Lのエンジンと4輪ディスクブレーキを装備した“GT”、さらにGTのエンジンにターボを搭載した“HF”を追加するなど、ランチアという由緒あるブランドにおける(比較的若い年齢層の取り込みも狙ったであろう)エントリーモデルとしての使命を果たし、その生をいい感じに過ごすかと思われたデルタでした……
が、1986年にGr’Bで行われていたWRCでの度重なる死亡事故を受けて翌87年からのWRCではGr'Aにタイトルがかけられることが決定し、またそのGr'Aのベース車両には同年4月開催のトリノモーターショーで既に発表されていたデルタHF4WDが選ばれたことにより、その行く末も、後世での“ランチア・デルタ”に対する認識も大きくかけ離れていくこととなります。
今日から君はラリーカー。デルタHF4WD
ランチア・デルタHF4WDは、従来のHFターボや前身とも言えるターボ4×4とは異なり2.0Lターボエンジンを搭載。アウレリオ・ランプレディによって設計され、1966年のフィアット・124スポルトクーペに初めて搭載されたフィアット・ツインカムと呼ばれるユニットをベースとしたこれはフラッグシップモデルであるランチア・テーマのもので、WRCに出るというのは後から付いた目的であることを踏まえるとなんちゅう市販車を造ってんだ、という話。
先述の通り純粋に競技のために生まれた車両ではなく、不十分な熱対策(後年のデルトーナと見比べればHF4WDは言うまでもなく……という感じ)、タイヤハウスの狭さ故にレギュレーション上で認められているタイヤサイズ拡大の恩恵を最大限に受けられない、そもそも車両の基本設計が70年代、と正直なところ世界の第一線で戦う“素養”があるとは言い難い車両。
しかしながら当時のGr'Aで四輪駆動のマシンはというと、デルタよりはるかに大柄で重いアウディ・200やフォード・シエラXR4×4、一方サイズ感は決して悪くないものの1.6L故に非力さが否めないマツダ・323などが主(※4)であり、このGr'A元年においてはデルタほど選手権の王座に近いマシンも、またランチアほど選手権の制覇を目的として参戦していたメーカーもなく、1987年のWRCを10戦8勝、ダブルタイトル獲得という形で終えました。ポイント有効ラウンド数は7戦(※5)なのでカンストってやつですね。(?????)
ちなみに勝利に届かなかったラリーの内のひとつはターマック(舗装路)ラリーであるツール・ド・コルス(以下コルシカと表記)。こちらは後輪駆動車であるBMW・M3を駆るベルナール・ベガンに阻まれてしまいます。
HF4WDはこの翌年のラリー・モンテカルロ、スウェディッシュ・ラリーで勝利を飾った後、HFインテグラーレへとバトンを渡すことになります。
フェンダーを盛ります、HFインテグラーレ
続いてはデルタHFインテグラーレです。所謂8Vと呼ばれるモデルですね。
2Lターボエンジンの出力は185PSに向上、タイヤハウスは広げられたフェンダーにより改善され15インチが標準化、ヘッドライト周りやウインカー(実はウインカーが横長形状になっています。何故かは知りませんが)横には通気孔が開けられ、更なる冷却性の向上を図っています。冷静に考えるとヘッドライト周りを穴ぼこにするなどなりふり構わなさも大概ですが、しかしこれでも序の口といったところ。あとドアミラーが同色になりました。
WRCでは、ワークスチームのマルティニ・ランチアがHFインテグラーレを1988年第3戦ラリー・ド・ポルトガルから投入。
第4戦のサファリ・ラリーではミキ・ビアシオンが優勝し、デルタはかつての伝説的なラリーマシン、ランチア・ストラトスでさえ終ぞ叶わなかったサファリ制覇を成し遂げました。
HFインテグラーレは結局88年を11戦10勝、2年連続でダブルタイトル獲得という圧倒的な結果で終えましたが、この年のコルシカではこれまでグラベルラリーを中心としてスポット的に参戦していたトヨタが四輪駆動車のセリカ・GT-Fourを投入し初戦からポイントを獲得、最終戦のRACラリーでは3位に入賞。ラリー・ニュージーランド(以下NZ)では三菱が同じく四輪駆動車のギャランVR-4を投入するなど、新しい時代が刻々と近づきつつありました。風向き、変わりそうね――1989年。ランチアは変わらずHFインテグラーレを続投。マニュファクチャラーズ・タイトルのポイントがかからない初戦のスウェディッシュ、第7戦ラリーNZはスキップし、第2戦モンテカルロから(これまでは後輪駆動車に敗れていたコルシカを含む)第8戦ラリー・アルゼンチンまでを全戦全勝(内4戦で表彰台を独占)。
デビューから1年経ってもなお敵なしかと思われたHFインテグラーレですが、第9戦1000湖ラリーで突然の黄色信号。なんと前戦アルゼンチンで優勝したミカエル・エリクソンが三菱に移籍、ギャランを駆ってそのまま1000湖で連勝(※6)。2位から5位までをマツダ・323とトヨタ・セリカが独占し、ランチアの最上位はビアシオンの6位と大敗(※7)を喫することになります。さらに続く第10戦ラリー・オーストラリアでもセリカが1-2フィニッシュ、3位に甘んじる結果に。
ランチアは地元である第11戦のラリー・サンレモにおいて同年のジュネーブショーで発表していた新型、“ランチア・デルタHFインテグラーレ16V”を投入します。
ボンネットも盛ります、HFインテグラーレ16V
デルタHFインテグラーレ16V。その名の通り16バルブ化されたエンジンは200PSの大台に乗り、そのエンジンを収めるべくボンネットはパワーバルジが増設され、通気孔も大型化。また、前後駆動配分がフロント寄りの従来とは異なり47:53とリア寄りの設定に。これまで年次改良のごとく出してはいますが、一方で後発である日本のメーカーからは1989年にトヨタのセリカがFMC、91年に三菱のランサーエボリューションが、92年にスバルのインプレッサWRXが発売されるなど続々と完全な新型をベースとした車両が出揃いつつあり、それでもランチアは旧態依然とした1979年生まれのハッチバックを使い続けるしかありませんでした。
そんなわけでサンレモに颯爽と現れたデルタHFインテグラーレ16V。従来とは打って変わって真っ赤(※8)なボディにマルティニ・ストライプを刻んで散らしたカラーリングでのデビューでしたが、このカラーリングで走ったのはサンレモとテストを兼ねて出場したフランス国内選手権のひとつ、クリテリウム・デ・セヴェンヌの2戦のみというレアなもの。事前の連絡もなしに赤地のボディにこのカラーリングを配して出したのが不興を買い、以降は白マルティニに……というのがもっぱらの説ですが、そもそもメインスポンサーの意匠を切り刻んだのが問題では?と思わないでもない。
結局、HFインテグラーレ16Vはビアシオンの手でデビューウィンを飾る(オリオールはクラッシュでリタイア)ものの、2位のHFインテグラーレを駆るジョリークラブのアレックス・フィオリオとは5秒差という薄氷を踏むような勝利でした。9戦7勝でビアシオンのドライバーズ・タイトルとマニュファクチャラーズ・タイトル獲得を確定させたランチアは次年に向けた開発・テストに専念するため、最終戦のRACを欠場します。
1990年。トヨタからユハ・カンクネンが移籍し、マルティニ・ランチアはミキ・ビアシオン、ディディエ・オリオール、ユハ・カンクネンの3人体制で戦うことになります。
この年もマニュファクチャラーズ・タイトルを獲得し、前人未到の4年連続マニュファクチャラーズ選手権制覇を成し遂げますが、一方昨年大敗を喫した1000湖ラリーではカンクネンの(スロットルトラブルに見舞われての)5位が精一杯であり、昨年の優勝から徐々に頭角を現し始めた三菱、サファリにレガシィRSを引っ提げついに本格デビューのスバル、そして5pt差でマニュファクチャラーズ選手権2位の位置につけ、念願のドライバーズ・タイトルを獲得したカルロス・サインツ擁するトヨタ。いよいよ大マジに風向きが変わりつつありますが、この年の1000湖から冷却性のさらなる向上を図るべく、Fバンパーを誤差として認められるギリギリまで前に出して空間を作ったHFインテグラーレ16Vの奮闘は次年もまだ続きます。ところでランチア以外のヨーロッパのメーカーはどうしたんでしょうか?姿が見えないようですけど……1991年。マルティニ・ランチアはミキ・ビアシオン、ユハ・カンクネンの2台体制と若干規模を縮小し、ディディエ・オリオールはジョリークラブからの出場となります。あとこの年のサファリで日産からサニーGTI-R(日本名パルサーGTI-R)がデビューします。開幕戦のモンテカルロ(※10)では早速セリカのサインツが優勝し、2位にビアシオンがついたものの、優勝争いは蚊帳の外といったところで決して思わしい結果ではありませんでした。第8戦アルゼンチンまでの6戦ではトヨタが優勝4回、2位2回と優勢で、サインツのドライバーズ・タイトル防衛はもちろん、ランチアを破ってのトヨタ初マニュファクチャラーズ・タイトル獲得も夢ではない、というレベル。しかし残りの1000湖、オーストラリア、サンレモ、RACでランチアが4連勝。
9pt差で逆転したランチアがマニュファクチャラーズ・タイトル獲得、ドライバーズ・タイトルにおいても後半のラウンドで失速したサインツをカンクネンが逆転。1989年以来のダブルタイトル獲得、そして前人未到の(2回目)5年連続マニュファクチャラーズ選手権制覇を果たします。そして12月、ランチアはWRCからの撤退を発表します。
……ところで突然ですが時を遡ること3ヶ月。9月に行われたフランクフルト・モーターショーで更なる改良を受けたデルタHFインテグラーレが発表されました。
4WS化も見据えた前後フェンダーの更なるワイド化により全幅は16V比で+75mm、盛りに盛って市販車の車重は+100kg、重ねた改良で6年目のWRCもかんぺき〜!なHFインテグラーレ・エボルツィオーネ
フランクフルト・モーターショーに現れたHFインテグラーレ16Vの更なる改良型、ランチア・デルタHFインテグラーレ・エボルツィオーネ。
“デルトーナ(大きなデルタの意)”という愛称が示すように、全幅は従来比+70mmの1770mm(※11)に。バンパーの形状が大きく変更され、形状は違えどかつてHF4WD時代に外気導入口という名目で装備しテストされていたリアスポイラーがついに追加。ヘッドライトは同径丸目4灯となり、ボンネット、ヘッドライト下部、Fフェンダー後方に通気孔が追加(Fフェンダー部のみ市販車ではダミー)。サイドスカートの同色化やRフェンダーの処理などをはじめ、従来のHFインテグラーレと比べると全体的にモダンな印象(※12)を受けます。給油口がむき出しになったのは置いといて。下手にイジらずキレイに乗ればこれでも結構品があってサマになりそうなのは流石ランチアといったところでしょうか。
ホモロゲーションの取得時、登録された名称は「HFインテグラーレ」であり、デルタの名称を持っていませんでしたが、2月2日付の修正で「デルタHFインテグラーレ」となりました。以降はストラダーレをエボⅠ、コンペティツィオーネ(こちらはスーパーデルタとも呼ばれますが)をデルトーナと表記します。
1992年、開幕戦のモンテカルロにはこれまで通りマルティニカラーを纏った3台のデルトーナの姿がありました。といっても撤退を撤回したわけではなく、チーム名は「マルティニ・レーシング」。アバルトによる開発こそ継続されるものの、Fウィンドウのハチマキやリアスポイラーにもランチアの名はなく、ランチア・ワークスとしての活動は終了し、ジョリークラブに移管されたことを暗に示しています。ドライバーはディディエ・オリオールとユハ・カンクネンの2人をメインに、ラウンドによってフィリップ・ブガルスキー、アンドレア・アギーニ、ホルヘ・レカルデ、ビョルン・ワルデガルドを起用。
一方ジョリークラブのデルトーナに負けじと、トヨタからはT180型セリカをベースとした新型、ST185型セリカ・ターボ4WDがデビュー。デビュー戦を制したのはオリオールのデルトーナ。サインツは2位につけ、3,5位にカンクネンとブガルスキーが続きます。ポルトガルではカンクネン、サファリではサインツと一進一退の攻防を繰り広げる……と思いきや、なんと続くコルシカから(ドライバーズ選手権のみのNZを除いて)オーストラリアまでの5戦をオリオールが連勝。2,3戦を残しすでに勝敗は決した……と思われました。
が、母国イタリアのサンレモ・ラリーを前にしてアバルトによるマシン開発が終了。(※13)
そしてそのサンレモではイタリア人ドライバーであるアギーニがマルティニカラーのデルトーナを駆って優勝。これが結局ランチア・デルタの、そして名門HFスクアドラコルセ(スクーデリア・ランチア)の、さらに言えばタルガ・フローリオやミッレミリア、ジーロ・デ・イタリアをはじめとしたレース活動に設立当初から精力的に取り組んできたランチアの(2023年6月現在)最後の勝利となりました。
サンレモ終了時点でのドライバーズ・ポイントはオリオールが120、カンクネンが107、サインツが104とオリオールがリードしていましたが、残りのラリー・カタルーニャ、RACではサインツが2連勝(20pt×2)を飾り、一方サンレモでリタイアを喫したオリオールは10位(1pt)、リタイアという低迷が響き、ドライバーズタイトルは土壇場でサインツの手に。それどころかシーズンを通して1勝のみながら全戦で表彰台に上ったカンクネンの後塵を拝して3位に終わり、フランス人初のワールドチャンピオン獲得は1994年まで待つことになります。
そんなわけで1992年、ランチアはドライバーズ・タイトルこそ逃したものの、マニュファクチャラーズ・タイトルを獲得し前人未到の(3回目)6年連続マニュファクチャラーズ選手権制覇を達成。この記録は未だに破られておらず、またWRCの始まりから現在に至るまでのマニュファクチャラーズ・タイトル獲得数においてもランチアの10回が最多となっています。
こうして6年にわたるランチア・デルタHFインテグラーレの参戦記はマニュファクチャラーズ選手権6連覇、47勝という他に比類するもののない圧倒的な記録と鮮烈な記憶を残して幕を閉じ…………
1993年!開幕戦モンテカルロにはオレンジ/紺/赤のコントラストが鮮やかなレプソルカラーとジョリークラブ名物、イタリアっぽい色使いのトティップカラーに彩られた2台のデルトーナの姿がありました。あれれ?
レプソルはトヨタから移籍した前年度ドライバーズチャンピオンのカルロス・サインツ、トティップは91年にプジョー・イタリアからジョリークラブに移籍し、前年の母国サンレモでWRC初優勝を飾った期待の若手イタリア人ドライバー、アンドレア・アギーニという組み合わせ(一部ラウンドではレプソル2台でアギーニの代わりにグスタポ・トレレスが出場)。加えてフィリップ・ブガルスキーを3台目に参戦させるという計画もあったようでしたが、WRCにおいて(※14)はマルティニのスポンサードを得られず、この体制に。アバルトから提供されたサポートや車両の数は多くなく、人員面でも大半はアルファコルセへ。つまりはもはやハナから余裕のないチームということなんですが、その余裕のなさが決定的に表れたのは第5戦コルシカ。
アギーニ車のみピレリタイヤに変更され、以降「サインツ車はミシュラン(カタルニアではサインツ車もピレリ)、アギーニ(トレレス)車はピレリ」というなんともな事態に。しかもこのコルシカではアギーニの方が明らかに速い場面がちょこちょこあった(当のアギーニはサスペンション脱落によるコースアウトでリタイアしたものの)
小話になりますが、このコルシカで派手に潰れたアギーニ車(TO13718T)、3か月後のラリー・マデイラにおいても使用され、これまたド派手なクラッシュ(後にリタイア)をかましています。走るんだそれ……
トヨタはセリカを熟成させ、フォードはシエラより明らかに優れた縦置き4輪駆動のエスコートRSコスワースを作り上げ、三菱、スバルはより小型で戦闘力の高いランサーエボリューション/インプレッサ555を投入、ラリーなんかよりもサーキットレースが忙しい日産は生まれて間もないサニーの未来といずれレジェンドになる若手ドライバーを捨てて早々に撤退と、アバルトの神通力もとうに失われドライバー陣を除いたすべてが前時代の遺物と化したといっても差し支えないデルトーナはこの時勢に抗うこともできず……
シーズン途中にランボルギーニF1(チーム・モデナ)のエンジニアによるエンジンの改良が行われたものの、サンレモではサインツでさえ地元プライベーターであるジャンフランコ・クニコの駆るエスコートRSコスワースの後塵を拝しての2位フィニッシュ(後に燃料規定違反により失格)という結果に終わります。
サインツは後にインタビューで「話が違った(実際契約時にはアバルトの開発が継続されるという説明を受けていました)」「最悪の1年だった」「これからのキャリアではもう二度とプライベーターはゴメンだ」「あれはキャリアの中で唯一論理より心の声に従った決断だった(※15)」と答えていますが、一方で今までにドライブしたラリーカーの最高の部分を集めて1台の究極のラリーカーを作るとしたら?という企画においてはスタイリングの面でデルトーナを挙げています。
ストラトスほどではないにせよ、しかしSE049でテストされた4WS機構をはじめ、基礎の旧さを差し引いてもなお“進化”の余地はあったであろうデルタ・HFインテグラーレ。93年のドライバーのラインナップはディフェンディング・チャンピオンと期待の若手ドライバーという組み合わせで、優勝こそありませんでしたがどちらも上位入賞を果たしていますし、たらればではありますが、マルティニ・ランチアとして、アバルトの開発をもってすればあと数年はやれたのではないかと思います。後のカローラWRC、206WRCの成功、各種現行規定を見据えて生まれたトヨタ・ガズーレーシング肝いりのGRヤリスを見るに、この車の残したものは決して小さくなかったんではないかなと思います。
ストラダーレとしての“進化”、エボルツィオーネⅡ
市販車に戻りまして。 1993年には正真正銘の新型ランチア・デルタ(ティーポ836)が登場。これで終わりかと思いきや、“エボⅡ”が出ます。ランチア・デルタHFインテグラーレ“エボルツィオーネⅡ”です。正規輸入のカタログには565万円とあります。 ちなみに10年位前のぼくは反抗期だったのでこれをボッタ気味な値だと思っており、その点295万のアバルトはお手頃でいいよな~と思っていましたがあれから16年。歴史とか栄光とかコンペティツィオーネの息吹とかそういうオタクくんの好きなニチャリ要素を思えば妥当だったということに気づきました。16Vの頃からそうでしたが正規輸入車はガレーヂ伊太利屋以外にもマツダ・オートザムディーラーでの取り扱い(※16)がありました。 エボⅠとⅡの違いというと、ECUが変わって燃料噴射方式がシーケンシャルタイプになっていて、タービンの小径化が図られ(コンプレッサーが小型化、タービン自体は同型)出力が215PSにアップ。[どのように?]内装はレカロのシート(SR-3)を含め暗めベージュのアルカンターラ張りとされ、ステアリングはスタイリッシュ度が増したMOMOの3本スポーク(※17)を装備。外装でいえばルーフのモールが同色になり、カムカバーが赤色になり、給油口のリングがシルバーになり、ホイールが16インチになり、エボⅠではダミーだったFフェンダー後方の通気孔が開いたくらい。これまでの進化と比べると随分見かけだけだなと思われた方、正解です。エボルツィオーネⅡ、名前こそⅡですがラリーを見据えてのモデルチェンジなどでは決してなく、ホモロゲーションも取得していないため、もはやホモロゲーションスペシャルなどではありません。とはいえ、エボⅠと比べて確かに乗りやすくなっているというインプレッションはそれなりに見た印象があります。
そういうことで、買った後に後部座席を引っぺがすなどせず普通に乗るというのならエボⅠよりもエボⅡがよいとされる(※18)のですが、海外のオークションをはじめとした市場でもホモロゲ等の箔のついたエボⅠよりエボⅡの方が高かったりするのは正直意外ではあります。(信憑性は定かではありませんが)エボⅡが2,481台とのことでエボⅠより数が少ないからとかでしょうか。
ちなみにエボⅡの製造はカロッツェリア・マッジョーラに委託され、マッジョーラの所有するキヴァッソの工場(かつてランチアの工場だった)にて行われました。
エボⅡは基本色がビアンコ(Code:210)、ロッソ・モンツァ(※19)、ブルー・ロード(438)の3色。エボⅠではこれに加え黒(632)、ロッソ・ウィナー(180/A)、ヴェルデ・ダービー(340)、ブルー・マドラス(429/A)という4色のメタリック塗装の設定がありました。正規で選べてたかは抜きにして。この際ついでに限定車も挙げますか。
いっぱいありますね。アバルトの限定車商法を笑えない気もしますが、まあいいか……
国内でクイック・トレーディングがこれらの限定車をベースにコルサ9というなんかWRCに影響受けて新車で買った人が真っ先に付けそうな雰囲気部品を色々付けたファインチューン程度の車両を作って売ったりもしていましたが、よくよく考えるとあれは在庫がダブついてたとかなんじゃないでしょうか。
求めるは“公道を大手を振って走れるGr'A”
本題に入ります。我が家にデルタがやってきたのは1994年のはじめ。当然ぼくは生まれていませんし、父親は所帯を持っていません。それまで二輪一筋で四輪には目もくれなかった父ですが、スーパーカー世代の人間には馴染み深い“ランチア”がなんともいえないカタチをしたハッチバックで活躍するラリーの映像を見て一目惚れ。でも964RSとかフォードRS200も検討してましたよね1993年のことでしたが、出てくる言葉が「今納車されているのは1年前に注文した人」、「いつまで作るか分かりませんが今注文入れてくれれば確実に用意できます」、納期どころか金額すら怪しい、カタログはディーラーにコピーが1部あるのみのイタリア車と対峙し、出した答えは会社の昼休みにハンコをつきに行くという暴挙。やっぱ趣味のために金貯めてた系かな~と思って昔話を聞いていたら「貯金ないけど納車までに貯めるからヨシ!👉」←何が???
そうして海を越えてやってきた565万円の白いイタリア車はめでたく(ラリーレプリカを目論む)オーナーに迎えられ、新車から車庫保管を貫き、効かないエアコン(※21)を捨てられ、ぼくが生まれ、エンジンブローの修理のついでに後部座席を捨てられ、妹が生まれ、(ガワだけのラリーレプリカにはしたくないため)後部座席の跡地を中心に棒が入り、途中RS200のために売られそうになるも母親が泣きの制止。いやエンジン壊れた自動車の修理ついでに座席捨てるところで制止しろこれから一生乗ることになると開き直り全塗装+レプリカを決行。めでたく母方父方問わず親類と顔を合わせるたびに「あれまだ乗ってんの?はよ捨てーや」というありがたいお言葉を頂く異常車となるわけですが、幸い今のところ張り紙とか怒られ等のご近所トラブルは発生しておりません。目立つ車は大人しく走ろう2023。
前書きの通り、10歳以降のぼくの誕生日の度に妖怪・この車お前にやる男が現れるようになり、免許取った翌日にぼくが初めて運転した車はこれでした。
初めて運転した日はメタルの強化クラッチのシビアさに震え(でも重くはない)、そのステアリングの重さ(教習車比)に驚いたものですが、重くないノンパワステ車に1年4ヶ月乗っていたらいつの間にか軽々。慣れというのはなかなかすごい。
チンクエチェントを手放してからのぼくのお出かけはトコットとこれの二択となりましたが、不必要にこっちを持ち出しても特に何を言われるでもなかったので、調子に乗って長野でいい感じになったり、滋賀にヌル~く行ってみたりもしました。両方雨だったわ。
下道ではまあそこそこに乗りやすく、特段何もなくてそこそこでしたが、何よりも高速道路の走りやすさといったら感動モノ。5速80km/hからそのまま踏み足してもグッと加速していくのは快適そのもの。フルバケもそこそこラクです。
感想がショボ過ぎやしないかと言われそうですが、ぶっちゃけ普通に乗ってる分にはこのくらいしか書けることのない車だなあと思うわけです。走る場にでも持っていけばまた変わってくるでしょうが、少なくともストリートからサーキットまでそつなくこなせるらしい硬めの脚も、ボルトで留まってないロールケージも、バランサーシャフトとサヨナラしたり重量合わせもしたエンジンも、真夏日には人の方がよほど先にくたばるような冷却系も、結構効くらしいブレーキも、「フルノーマルの味も“本物”の味もわからず生まれた時からこれしか知らない人間」にとってはそれら全てが生み出す味が結局“ソレっぽい”雰囲気を若干高める程度に過ぎないということですが。うーん。
とはいえ流石にふわふわ快適布シートのチンクエチェントと比べれば、ワクワク非日常の匂いはあります。ワークスの本物サイドミラーは見えない(※22)ですし。
しかしまあこんだけ散々無遠慮に乗り回しといてアレですが、幼少期から助手席で親が運転するところを見てた車を運転しているという多少の感動こそあれど、それでもなんかやっぱり足りない。馬力の話はしてないそう思って改めて見直してみたんですが、よくもまあこんな書けたもんですね。これだって別に街乗ってただけの1年4ヶ月/2万キロなんですが、やっぱり自分で選んだ車にはなんだかんだそれなりに贔屓目思い入れがあるということでしょうか。あと“初めての自分の車”ってやつか。
あくまでも親が選んで親が新車で買った親の車ですから、その辺はまあ。
ところでランチア・デルタといえば、アルティメット・ウルトラ・スーパー・エキゾチック・カーとして名高い神の車、マセラティ・シャマルと並ばんとするレベルで宇宙一壊れる壊れないみたいな話がつきものですが、実際どうなんでしょうか。いやどうなんでしょうかってお前が聞くんかーい!😂👆と言われるかもしれませんが、記憶の限りではぼくが助手席に載ってて走行中不動になったのは1度きりなんですよね。ネットでググって出てくる記事は95割が特定のライターさんですし、何かしらの投稿に付随するヤフコメは知り合いの友人くらいのクソしょうもな伝聞系であるため、昔の雑誌かみんカラが一番見やすい(可用性の面で)市井の声かもしれない。ド古いタイプの個人ブログがいい感じなんですけどあの辺もうだいたい死に絶えてしまっていて電子の海というものの儚さ……(?????)
最後に
なんか本題から脱線した方の話が長くなりすぎた分、長さの割に内容が無いよう😭って感じもないではないですが、さっさと終わらせることにします。
まあ、色々思うところはあります。ありますが、それはともかく。
異様に祭り上げられたこのご時世、もう手放したら二度と手元に戻せない車であるのは確かなので、なんとなく行けるとこまで行ければなと思っています。ゆるめに。多分ウチの親は他人に意に沿わないイジり方、乗り方をされることをエラい嫌がりそうなタチの人間なので、そういう他人の手に渡るくらいならぼくの手で刺して潰して終わる方がマシではないかなと勝手に思っています。自ら刺しに行ったりはしませんけど。あ、でも昨年末1本12万円のモンテカルロを普通に溝あるAD08Rもろとも1本ガッとやりました。ごめんなさい。