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そしてバトンを手渡した。
先日、人生で初めて受け持ったクラスを無事に卒業させることができた。
既に2、3回ほど生徒に泣く姿を見せてしまっていたので、生徒には「泣き虫」なんて呼ばれており、「式中はとりあえず耐える!」と意気込んで式に臨んだ。
呼名までは無事に乗り切って「あれこれは意外にいけるのでは?」と思っていたら、ダメだった。自分のクラスの生徒の「答辞」で涙腺が崩壊し、そして学年全員で歌う「式歌」で追い討ちだ。退場の頃には涙が枯れてしまうと思っていたら、号泣している生徒の姿が目に入り、もらい泣き。もうね、達成感と安心感と寂しさと虚しさと、あの感情は担任をやった人にしかわからないと思う。
卒業式前日、「どうせ当日は感情がぐちゃぐちゃでちゃんとまともに話せないだろうから、『送辞』としてまとめておこう」と思って筆を取った。いわば僕から生徒への「バトン」だ。その原文を以下に掲載しておく。
久々に投稿しようと思ったのは、もはや指導する生徒もおらず、暇を持て余しているから、というのもある。
一方で、やはり「送辞」として今回まとめたことは、自分がこれから教員人生を歩む上で最も伝えていきたいことだと思ったからでもある。
今後自分が関わった生徒にこのバトンを確実に手渡すための備忘録というかなんというか。
ほんとに久々に発信欲みたいなものが湧いたのでぜひ読んでくださいな。
伝えたいこと①:「意味」「選択」「正解」
最後の最後、みんなに伝えたいのは、「意味」と「選択」の話です。
最近、ある芸人の「古典なんか学校で勉強しても意味ない」的な発言が SNS で話題になっていました。
こうした、「学校の勉強不要論」は、特に内容が専門的になり、実生活とは距離感ができる高校段階の勉強では、定期的に議論になっています。
僕のこれに対する答えは、「意味をなくしているのはその人自身ではないか」ということです。Apple の創設者である Steve Jobs さんのスピーチの中にこんなセリフがあります。
You can’t connect the dots looking forward.
You can only connect them looking backward.
将来を見据えて点と点をつなぐことはできない。
過去を振り返ったときに初めて点と点がつながるのだ。
忙しくて日々、やらなければならないことに追われていると、目の前の「点」がぼやけてしまって、終いには「こんなの意味ねえし」と切り捨ててしまうことがあります。しかし、その点は、将来あなたたちがうつ「点」とつながるかもしれません。どんな「点」にも意味はあるのです。目の前の点に与えられたた意味を無くしているのは自分なんです。どうか、目の前の点に意味を与えられる人でいてください。そうすればいつかその点は線となり、自分の確かな輪郭になるはず。
そしてこれからの人生はその「点」を選ぶことの連続です。点は無数にあってそのすべてを通ることはできないから。どの「点」が正解なのか、それは、選ぶ前に誰かに分かることではありません。大切なことは、1 つ点を選んだら、それが正解になるように、自分の輪郭になるように、全力で努力することです。
「正解」はありません。「正解だった」と思えるように自分がするんです。
目の前にある「点」に意味を与えられる自分であろう。
選んだ点を「正解だった」と思える努力をしよう。
これがやっぱり、この 2 年間で一番みんなに伝えたかったことです。このマインドで生きていけば、きっとみんなの人生は大丈夫になるよ。応援しています。
伝えたいこと②:教員という仕事
さて、僕の大好きな小説のひとつに瀬尾まいこさんの「そして、バトンは渡された」という小説があります。主人公は高校生の女の子森宮優子。優子は訳あって何度も親が変わっています。彼女の 2 番目のお母さん「梨花さん」はこう言います。
「優子ちゃんの母親になってから明日が二つになった。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日がやってくるんだ。親になるって未来が二倍以上になることだよ」
さらに梨花さんの次の親「森宮さん」は高校生になった優子にこう言います。
「梨花の言うとおりだった。優子ちゃんと暮らし始めて、明日はちゃんと二つになったよ。自分のと、自分のよりずっと大事な明日が、毎日やってくる。すごいよな。」
そんなおおげさな、とみんなは思うかもしれないけど、僕はこの言葉に妙に納得したのを覚えています。
親ではないけれど、僕の明日はみんなの担任になってから、36 倍になりました。自分よりもずっと可能性のある明日が何倍にもなって毎日やってきた。みんなが怒られたら僕も悲しかったし、みんなが褒められたら僕もうれしかった。本当に。
そういう意味で教師になってよかった、僕の選択は「正解だった」と今そう思えているのは、ほかならぬ 3年○組のおかげです。僕の選択を「正解にした」のは俺ではなく、○組のみんなだね。これから数十年、みんなのおかげで教師という仕事を続けていくことができそうです。本当に 2 年間、ありがとう。そして、卒業おめでとう。
以上
最後のLHRを終えた生徒の顔を見ていると、僕のバトンを、彼ら彼女らは確実に受け取ってくれたように思う。
教員という仕事には確かに大変なことが多い。国の根幹を成す「教育」のプロの労働環境として適切であるとは到底思えない。しかし、やはり僕は「こんな仕事やめとけ」「もっと良い仕事あるよ」と教員を志す子どもたちに言ってしまうような教師にはなりたくない。
「ブラック」なのも教師という仕事の一面なら、「教師を続けたい」と思えるくらい素晴らしい子どもと関われるのも一面だから。
まあ、結局のところ僕がこう感じられるのは生徒に恵まれたからに他ならないのだけど。
本当に3年間ありがとう。