「また明日」がこわい。
小学生4年生の頃ぶりに遺書を書いた。銀行口座の暗証番号と残高。今月の家賃も払えないはした金。わたしの価値。好きに使ってください。と、書いた。家族の事を思い出して死ねなくなってしまう事への躊躇いと、何も言わずに死んでしまう事への申し訳なさとで泣いていた頃、恋人からLINEの返信があった。と言っても、数分前にわたしがスタンプだけ送っては送信取り消しして放置していたのだけれど。
小学生4年生の頃に書いた遺書は、心のどこかでバカにしていて、恥ずかしいと思っていた。本気で死ぬ気はないのに、死ぬほど辛いと見せることで許されたいという浅はかさに気付いていたからだった。薄っぺらい、思ってもないような建前が並ぶ紙を見て笑った。多分、泣きたかった。多分、辛かった。それは、痛みは、本当だった。
今だって、本当はこんな事でと思っていた。こんな事で死んでしまっていいのか?
悲しいような事がある訳ではないから。しかし、原因のない悲しみに耐えられるだけの精神力が弱っているというのも事実だった。誰かに話すのも、否定されたら、怖い。命綱が、ひとつずつ切れていくのを感じる。生きるだけの気力が、少しずつ弱まる。じりじりと死に向かうのにせっかちな私は耐えられなかった。恋人から返信がなければ死んでいたかと言うと、自分でも分からないが、気を引くように送ったスタンプを消した事で、相手を試しているのは明らかだった。浅はかな、無責任な、最低な駆け引きだった。そんな不安定な自分が本当に情けなくて恥ずかしい。紛れもなくただ、事実だった。明日に気力を残すだけの余裕が無かった。明日から4連勤だ。
人と会うのが怖い。人に自分の姿をみられるのが、存在を認識されるのが怖い。聞こえる声が全て悪口に聞こえたりするのが怖い。駅のホームに吸い込まれそうな感覚が嫌いだ。自転車か徒歩で行ける範囲で生活したい。
今年の目標は、楽しむ事だとか、そんな事だったと思う。そうそうに、治療を初める前の一番状態が酷かったころの衝動にかられていて、心が折れそうになっている。死ぬよりも、安いか。明日、明日は、仕事終わりに、何か楽しい事をしたいな。今日、生きててよかったと思えるようなこと。どんな事だ。その場しのぎでいい。余裕がある時に、自分の出来ることをやればいい。今は、生きることだけでいい。それだけでいい。何もかも違うと泣きわめくわがままなわたしが、いい日だったと眠れるように、明日を生きる。
よくがんばった生き抜いた今日。おやすみなさい。
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