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燕と残桜

今日は用事で京都に向かった。
昼間に仕事をしている人を見ると、無職の自分が恥ずかしい。

道路の測量をしている人の横をすり抜け、淀川沿いに車を走らせていると、車の右手からフロントガラス正面にいきなり燕が入って来た。一瞬、「当たるか?」とヒヤリとしたが、燕は美しくL字に急旋回すると、車の前を先行するように入り込み、私は車を減速させた。
淀川沿いのその車道は、スピード違反の取り締まりも多く、減速は自分の中で既定路線であり、不快ではなかった。

が、まだ燕は飛んでいる。こちらは、気が気ではない。車を減速させた燕は、ゆっくりとフロントガラスの左端にフェードアウトしながら、今度は真横に入り、助手席のウィンドウと平行して飛んだ。
その燕の尾羽は長く美しく、その飛行能力とともに、彼(彼女)の優秀さをアピールしているかのようだった。
明らかに、意思を持った行動だと思った。が、何を伝えたいのかは、わからなかった。
ただ、しばらく並走して飛んだ燕は、ゆっくりと、まるで戦闘機が編隊から離れてゆくように、更に左後方に流れて消えた。

その燕に代わって、背割りの土手の桜並木が目に入る。
桜並木は、まばらに咲いた桜が僅かにブチ状に残り、既に美しくはなかった。燕が美し過ぎたのかもしれない。もしくは、明らかに残桜となった桜には、今をときめく燕に、ただ今、及ばなかっただけかもしれない。

「先週ならば桜が勝ったか?」

今、ときめく者も、明日ときめくとは限らず、今ときめく姿を留めたければ、そこで散るか、姿を消すしか、人(他人)の心には残らないだろう。その場で維持する、挽回するという執念は、並の人間には難しい。

退職したタイミングが早かったか?と、まだ後悔する私の心を、燕は知っていたのか?
私の多少の若さが残る姿、活躍していた姿をそこに留められたのならば、並の私には十分なのか?

もちろん、残桜には残桜の美しさがあるのだろう。
さて、もう一度美しくなれるかどうか?
明日は恥ずかしがらず、今後の咲き方をゆっくりと考えながら、残桜を見に行くとしよう。