事実を直視する
The Book of Life
8/23のテーマは
Face the Fact
*J.クリシュナムルティの言葉を、
一日一ページ 、365日分に編集された本
「The Book of Life」を 一日分ずつやさしく翻訳し、
気功的な補足や解説を添えています。
和訳&補足解説 天野泰司
和訳
悲しみの中にいて、精神的にひどく混乱し、そして考える。
私は何をすれば良いのだろう、何をしたらいけないのだろう、
どうしたら変えることができるのか、と。
そうした思考、「こうすればよい」という公式、観念が
ありのままの事実を見ることを妨げるのです。
頭で考え、どうしようかと思索することは、
あるがままの現実からの逃避です。
重大な危機がある時には、すぐに行動が生じます。
何も考えていません。
どうしようかとも思わないし、
そんな考えを元に行動することもありません。
「こうすればよい」という思考パターンは、
自然の摂理に則った行動からの逃避手段になっていて、
私たちの心を怠惰で、不活発なものにしていきます。
こうしたことの全部の構造に、
指摘されて気づくのではなく、自分で気づき、
ありのままの事実と向き合うことができますか。
例えば、私たちは暴力的であるという事実に。
私たちは、暴力的な人間です。
生活の手段として暴力を選ぶのです。
戦争やその他の様々な暴力を。
私たちは、特に東洋では
「非暴力」ということを唱え続けていますが、
私たちは非暴力的な人間ではなく、暴力的です。
非暴力という考えは、観念にすぎず、
政治的にも利用されがちです。
それは話の本筋とは違いますが、
単なる観念であり、事実ではありません。
人間は暴力という事実と向き合わざるを得ないので、
非暴力という観念を生み出し、
そのために、事実に対処することができないでいるのです。
結局のところ、私は暴力的です。これが事実です。
私は怒っている。
そのことに、どんな観念が必要だというのですか。
怒っているというのは観念などではなく、
怒っているという偽りのない事実であり、
そのことが重要なのです。
お腹が空いている、という偽りのない事実と同じです。
お腹が空いたということに、どんな観念も必要ありません。
お腹が空いて、そして、何を食べるべきかというような観念が生じる。
お腹が空いて、そして、本能のままに食べるのです。
あなたの前に立ちはだかるものに対して、
何をすべきかという観念が存在しない時、
自然の摂理に則った行動だけが残ります。
その、目の前に立ちはだかっているものこそが、
ありのままの自然なのです。
J.クリシュナムルティ 訳・天野泰司
自然に経過するということ
NPO法人気功協会運営責任者 天野泰司
病は、自然に生じる偽りのない身体反応です。
大きな心の波が押し寄せてきた時と同じように、
痛みや苦しみに対して、
どうしたら改善するのかと思考を巡らせ、
その解決に向けて様々な工夫をしはじめます。
病院に行って、薬をもらったり、
様々な治療法を試してみるかもしれません。
しかし、そうした処方の大部分は
見かけ上、症状を抑えることはできても、
本来の自然な経過を乱し、心身に余分な負担を強いるものです。
そのため、症状が治まっても、
どこかすっきりしない、生命活動が不活発になって、
なんとなく調子の優れない感じが残る。
あるいは、同じ症状を繰り返したり、
他の病気に転化していくのも珍しくありません。
病というものは、
自らの力で、適切な順序とタイミングで
自然に経過した時にのみ、生命をはつらつとさせ、
以前よりも、元気で、強くしなやかで、
心地よい心身を育んでくれるものです。
そうした自然な経過を一度体験すると、
病に対する恐れや不安は見事に解消していきます。
そして、病をそのままに
自然で、かけがえのない大切なこととして
迎え入れるようになっていきます。
自然に経過するというのは、もちろん
何もしないということではありません。
瞬間瞬間の私の心身とはっきり向き合い、
刻々と移り変わっていく状況に対して、
無心に、全力を発揮して、自然な対処をしていくことです。
たとえば、痛みがあれば、
その痛みができるだけ少なくなるように、
姿勢を変えたり、暖かくしたりと、
本能的に最善の状態を選んでいくようにするのです。
その一本のベストルートを辿るようにして、
病が目的としている
心身の破壊と再生を成し遂げていくことが、
自然に経過するということの意味なのです。