見出し画像

これからの教育


これからの教育

「作法が子どもを変える」

「おはようございます」「こんにちは」笑顔で元気な挨拶を聞くと実に清々しい気分になる。この十年あまりで、人々の起居がぞんざいになって来た。「起居」とは「人の立ち振る舞い」の事を指すことばだ。例えば、地下鉄などの車内で化粧をする女性、飲食をする人、また、街中で食べながら歩く人、食べ物が口に入っている状態で話す人等、以前は見かけなかった光景を数く見かけるようになってきた。男女のことばも同等に使われるようになって来た。最近では、男性が女性ことばを使う事も珍しくない。このような起居を「無作法」とも言う。「作法」とは、動作の正しい方法(広辞苑)の意味を持つ。

グローバルということばがよく使われるが、それは、けしてこの様な「作法」等、我が国に古くから伝わる文化、風習、ならわし等を排除するものではない。日本では、よくお隣の国である中国の「模倣社会」を批判する。しかし、自分の足下を見つめると、アメリカ風、ヨーロッパ風が目立つ。生活様式も同様だ。どうも、他人のことを言う資格などないのかもしれない。

国語力の低下は、このような自国の文化、風習、ならわし等を軽視することも影響しているのではないだろうか。殆どの学生は(最近の大人を含める)、尊敬語、謙譲語、丁寧語という国語で習う「敬語」が苦手である。幼小の頃から使う事が少なくなってきたからだろう。
目上の人には「丁寧」なことばを使う。かつては、目上の方にぞんざいな口の利き方をしようものなら父親から大目玉どころか、時には叩かれる事もあった。挨拶は、背筋を伸ばし、目を見て行う。身なりを整えてから挨拶をすることも常識でった。「作法」とは、実に素晴らしい教育であり、幼い頃から当たり前のように各家庭で躾けられてきた。それ自体を「家風」とも言った。挨拶の出来ない子の親は、子どもの躾けも満足に出来ない親として、軽蔑されたものだ。

この様な「作法」を通した生活から、私達は大切な事を数多く学んだ。それは学問の前に教わるものであった。そして、子どもの「心」はこうして作られていく。目上の方だけではない。年下の面倒も見る。当たり前の事であった。ことばの数も自然に増えていく。同時にコミュニケーションもとれるようになった。お使いに出されることもしばしばあった。他家に行くとき、「失礼します」と言えたとき、どこか大人になった自分を感じる事もあった。丁寧な言葉遣い、挨拶、立ち振る舞いを誉められることが大人の第一歩でもあった。人間形成の土台が「作法」を通し形成されていく過程がそこにあった。

幼児期から小学生に到る過程は、基本的感覚形成期である。そして、それは、社会の基本的ルールを修得する時期でもある。その基本的ルールが、話すときの作法、挨拶の作法、食事の時の作法等である。また、そこには、結ぶ・包む・折る・たたむ・洗う・片付ける・切る・着る等々、指先や手先を使う家仕事が沢山あった。幼い子どもであっても自立出来るほどの経験を沢山積ませていた。次第に子どもは、逞しくなり、様々な工夫を凝らすだけの能力も高めていった。そして、学校という場で学問を学び社会に出て行った。

時代が便利さを追求していく過程で、私達はどれだけ手抜きをして生きてきたことだろうか。平成になり24年になる。生きることととは何か、もう一度原点を見つめ直し、子どもの達の未来を創造していかなければならない。「作法」は、子ども達を良き未来へ導く一つの教育ではないだろうか。そう考える私はもう古い人間なのだろうか。

2012/9/6


著:石川教育研究所 代表 石川 幸夫

石川教育研究所 代表 石川 幸夫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?