スティーブン・ピンカー:その歩みとビジネスパーソンにとっての意義(山形浩生)#1
NewsPicksパブリッシングでは、毎月1本、ニュースレターを発行しています。 ここで私たちが皆さんと共有したいのは「今すぐ役立つわけではないけれど、10年かけて効いてくるインサイト」です。 私たちが信頼する各界トップランナーによるリレー連載(「スロー・ディスカッション」と名付けました)のかたちで、毎号お届けします。登録はこちらから(無料)。
山形浩生 | Hiroo Yamagata
評論家、翻訳家。2018年まで野村総合研究所研究員。東京大学大学院工学系研究科都市工学科およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。経済、脳科学からSFまで幅広い分野で翻訳と執筆を手がける。著書に『新教養主義宣言』ほか。訳書にピケティ『21世紀の資本』、クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』、スノーデン『独白』、バナジー&デュフロ『貧乏人の経済学』ほか多数。
スティーブン・ピンカーの著書は、いつもビル・ゲイツの推薦図書に含まれるし、多くのビジネス誌のベスト書籍ランキングでも常連だ。となると、なんかお手軽なビジネス指南みたいなのが得られるんじゃないか、とムシのいいことを考えてしまうのが人情というもの。
が、残念ながら、そんなうまい話はない。別に彼の本を読んで、明日から職場で使える交渉術やプレゼン技能が身につくわけでもない。そもそもピンカーはそんなレベルの話は書いていないのだから。主な業績と主張は以下の通りだ:
・人間の言語と精神を進化論的に説明:人の言語や心は、生得的な能力モジュールの組み合わせで進化的に生じた!
・人間はどんな能力でも後天的に学習できるという「ブランク・スレート説」との戦い:人の能力はある程度は生まれつき遺伝で左右される部分がある。それを考慮した社会の仕組みを作ろう!
・ドグマ的な反進歩主義との戦い:人間文明は暴力性、格差、差別、不寛容、環境破壊その他の様々な邪悪を悪化させてきたという反文明的な主張は全部まちがっている。生得的な悪い部分を社会と文化で抑えてきたのが人間の歴史で、ぼくたちもそれを先に進めねばならない!
これだけ見ると、しごくまっとうに思える一方で、確かにあまりに話が原理的すぎて、ビジネスとのつながりは見えてこないかもしれない。
だがまさにその原理的なところこそがポイントなのだ。ピンカーにビジネス的な御利益があるとすれば、それが今後重要になる人間存在の本質についての知見を与えてくれること、そしてその社会像が、楽観的ながら最もフェアで整合性を持ちそうな未来のビジネス環境についてのビジョンを与えてくれる、ということだ。
それを理解するには、彼の主張の変遷とともに、現代の文明や社会の状況についても少し理解する必要がある。それを以下でざっと見てみよう。
進化がもたらす新しい世界観
1990年代あたりから、人間とその社会にまつわる様々なものが、進化的に発達してきた、という論者がだんだん勢力を増してきた。自由、意識、道徳、社会、経済、家族、宗教、技術、平和、人権その他ありとあらゆるものは、人間という生物進化の中で生じたものだという見方だ。
その立役者は、人間は遺伝子の乗物にすぎないという「利己的遺伝子」説のリチャード・ドーキンスだ。世間的には誤解されているけれど、ドーキンスは遺伝子が利己的だから人間は利己的だと言ったのではない。そこから生物の協力や愛他的な行動が(ときに)合理的になることを実証したのだ。よい行動や規範は、無意味な儀礼なんかではない! そうした行動は進化の中で有利に働き、遺伝子を残すうえで合理性を持つのだ。これは経済学の、アダム・スミス的な見えざる手の発想ともつながる。
それを受けて、様々なものを進化論的に説明する一般書が大量に生まれた。ピンカーの出世作『言語を生み出す本能』もその一つだった。
これは言語を進化的にとらえた本だ。もちろん、言語があれば生存に有利だ。でもピンカーの本はそうしたつまらない主張にとどまらず様々な視点から具体的に説明してくれた。ヒトは生まれつきスーパー文法能力と、様々な機能のモジュールを備えている。言語はその組み合わせで生じる、と彼は主張する。そして子供の言語学習、言い間違い、様々な言語の比較など、最先端の研究を援用してそれを説明してくれた。
続く『心の仕組み』は、話をさらに広げた。もはや言語だけではない。心すべてが、進化的に発達してきた様々な心的モジュールの組み合わせなのだ、と彼は論じる。たとえば3Dステレオグラムや子供の言語学習、言い間違い、錯覚や錯視、様々な言語の比較、さらには脳科学の成果を縦横に使い、この本はぼくたちの脳内にあるそうした「モジュール」の存在を実感させてくれた。具体例と理論の最先端を結びつけ、異様にわかりやすくおもしろい読み物に仕立て上げるピンカーの名声はいちやく高まった。
人間の生得的能力:ヒトは空白の石板ではない!
ここまでのピンカーの説は、言語や心が進化的な適応として、モジュール間の相互作用で生まれてきた、というものだった。だがそこには一つ、大きな前提がある。
そうしたモジュール、あるいは心的な機能が、人間には生まれつき備わっている、というものだ。
この一見すると当たり前の話は、特に進化論的な文脈では不人気、というかヤバい発想だった。遺伝学ではかつて、能力が遺伝するという主張は優生学につながった。その反動で、人間は生まれたときには白紙または空白の石板(ブランク・スレート)であり、そこにどんなものでも後天的に書き込める、という説がドグマ的な力を得た。そして、ここから少しでもずれた主張を行うと、ファシスト、ネオナチ、人種差別主義者とむちゃくちゃな罵倒をされるのが通例となっていた。
ピンカーは、次の本でそこにまっすぐ切り込んだ。それが『人間の本性を考える:心は「空白の石板」か』だ。心は空白の石板ではない。遺伝により生まれつき備わったものが確実にある。それは生き別れになった双子が見せる共通性や、各種性質の明らかな性差からもわかる。
それを否定する「進歩的」なドグマは、性差など生得的に見えるちがいがすべて、後天的な学習と差別の結果だとした。そこで女の子から無理矢理人形を奪って嫌がる男の子に押しつけ、本人たちの希望に反する役割を強制し、生得的な差を抑圧してみんなを不幸にしている。そしてそれを否定する研究者は差別主義者呼ばわりされて迫害される例が多々ある。
だがもちろん、生まれつきの差は存在する。平等実現には、その事実をはっきり認識して、対策を講じねばならない。啓蒙主義と近代化のプロセスは、まさにそれをやった。その成果を潰してはならない!
この1冊で、ピンカーは単なる進化言語学者や発達心理学者の立場をはるかに超える存在となった。ドグマを(進歩的とされるものですら)否定し、事実のきちんとした検証を訴え、火の粉を浴びるリスクを冒してもまちがいをきちんと批判する誠実さも持ち合わせた、普遍的な知識人としての名声を獲得した。さらに進化論者の一部が見せる、「進化は必然で止めようがないから、ぼくたちは無力なんだ」といった変なシニズムに陥る軽薄さとも無縁。人間が持つ限界や制約をふまえたうえで、人類が進歩を続けるための道筋を具体的に考えるところにまで踏み出した。
人類の進歩: 社会啓蒙論者となったピンカー
この種の事実に反するドグマは他にもある。中でも最大のものは、昔はよかった、文明は人間をかえって不幸にした、というものだ。人類は進歩と称し、自然を破壊し、環境を悪化させ、あらゆる面で人々を抑圧して不幸にしてきただけだ、というのがその主張だ。ピンカーは、これに対する反論に真面目に取り組んだ。
その皮切りが『暴力の人類史』だ。これは邦題の通り、人類の暮らしの中の暴力がどう変化したかを実証的に示した本だ。
それまでの文化的なドグマでは、かつて人々はなかよく平和に暮らしていたことになっていた。それが文明の発達とともに人間は、どんどん暴力的になり、それがいまやエスカレートして人類絶滅5分前、というわけだ。
だがピンカーは、これに正面切って反論した。人間は、むしろ文明の発達により暴力を抑えてきた。戦争も含め、暴力は実はどんどん下がってきているのだ。彼はこうした暴力傾向について、既往研究や各種の統計をもとに縦横に論じる。
そして暴力だけでなく、文明の様々な部分にまでその議論を広げたのが最新作『21世紀の啓蒙』となる。
寿命は延びているし、人口は増えても食料危機はきていない。貧困は減っているし格差もそれほどの問題ではない。環境問題も解決され、地球温暖化でも原発促進を含め、変な終末論に陥らずやれることはあまりに多い。人は豊かになっても幸福になっていない、というのもまやかしだ。そして、いま話題のポピュリズムも、実は年寄りが一番悪質なので、いずれ改善する可能性が高い。
この主張自体は目新しいものではない。拙訳のビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』、マット・リドレー『繁栄』、ヨハン・ノルベリ『進歩』と共通する立場だし、ハンス・ロスリング他『ファクトフルネス』と重なる部分も多い。
だが類書との差は、その背景についての考え方にあるだろう。類書は人間の創意工夫とイノベーションへの信頼を唱えてみせるに留まる。でも本書は、啓蒙主義という大きな枠組みを提示し、その鍵としてエントロピー、進化、情報を掲げる。それが啓蒙主義の原動力となり、人類の各種進歩を後押しし続ける、というのがピンカーの基本認識だ。
ピンカーの歩みまとめ
以上、ピンカーの一般向け著作についてざっと述べてきた。これ以外にも、もっと本業の言語寄りの本もあるのだけれど、それについては割愛しよう。その主題の推移を見ると、だいたい次のような感じだ。
1. 進化的な心の発生と、その前提となる生得的なモジュール
2. 生得性の重視から生じる、「ブランク・スレート説」の否定と実証性重視
3. 妄想的な反文明的物言いの実証的な否定と、進化を背景とした文明を支える啓蒙思想の称揚
そして彼の知識人としての強みは、進化論的な考えを背景とした人間とその社会発達についての深く力強い認識、安易なドグマに流されない実証性の重視、そしてそのためには業界や時代の主流派において不人気な主張でもごまかさずに断言し、批判にもきちんと答える誠実さにあるといえるだろう。
たとえばブランク・スレート説への批判の中でピンカーは、当時(いや今も)差別的だと不当に糾弾され大バッシングの標的となった書籍、ハーンスタイン&マレー『ベルカーブ』(邦訳なし)やソーンヒル&パーマー『人はなぜレイプするのか』をわざわざ擁護するという、学問的誠実さのために火中の栗を拾うような勇気まで見せた。
また近著やその後の発言では、環境問題、特に温暖化問題についての話題でもそれが見られる。グレタ・トゥーンベリ的な温暖化による地球破滅論が、いまやますます知識人の浮薄な流行になっているが、どれもIPCCの報告書で明確に否定されている代物だ。ピンカーはこうした「グリーニズム」を批判し、さらにアメリカ民主党のグリーン・ニューディールといった政策をはっきり批判している。さらに意識の高い人々に不人気な原発も断固支持する(『21世紀の啓蒙』第10章参照)。
同時に彼は、各種の言論の自由や議論を邪魔する各種活動についてもきわめて批判的だ。いま各地で自分の気に食わない主張を弾圧しようとする動きがあまりに多い。自分の発言は言論の自由だが相手の主張はヘイトスピーチだから言論弾圧してかまわないのだと双方がわめきたてる。彼はそうした動きも積極的に糾弾し、自分とは相容れない論者の言論の自由も擁護する。
ピンカーのビジネス応用?
さてこれでピンカーの何たるかは一応おわかりいただけたと思いたい。が、それがビジネスとどうつながるのだろうか?
一つは、彼の著作から得られる進化論的な視点と、そこに描かれているいまの人間の様々な制約だ。いまや進化的な視点から人間とはそもそも何なのかというのを考えることがますます必要になってくる。
なぜか? いまや各種の技術が、人間の限界を突破するほどになってきたからだ。たとえば、すでにスマートフォンと各種センサで、人間の状態の完全な常時モニタリングが可能になっている。
これまでのビジネスや社会制度は、そんなことができないというのを前提としてきた。保険は、事故や病気はおおむねだれにでも平等に偶然起こるものだという想定に基づく。そしてそれを細かくモニタリングするのが不可能だからこそ、みんなお互いに万が一に備えて保険を積んでおきましょう、というビジネス/社会制度が実現できた。でも、その前提がくずれたとき、保険をどうするかというのはすでに現在進行形の現実の問題だ。
自由や権利、プライバシーという話も、かつての規制はそもそも技術的にできることが限られているのを前提としていた。その前提が転覆した現在、何をどう規制すればいい? 各種SNS規制がぶちあたっている悩みがここにある。そしてその中で、人間というのがそもそも何で、何を求めているのか、という話を考える必要があらゆる面で生じている。
これまでのビジネスは、技術とコストとのバランスだけ考えればよかった。ディスプレイでは、コストが許す限り画素数はどんどん細かくすればよかった。でももう、それだけでは不十分だ。画素数が人間の知覚限界を超えてしまったら、どこまでやればいいのか? 人間の情報処理の仕組みも含め、人間とは何かという要素を、単なるユーザインタフェース設計にとどまらないレベルで考える必要がでてくるはずなのだ。ピンカーをはじめとする進化的な人間理解は、その視点を与えてくれる。
そして彼の社会啓蒙主義に属する著書もまた、各種のヒントを与えてくれる。これは人によって議論が分かれるところだろうけれど、ぼくは彼の描く人間社会の進展がきわめてまっとうなものだと見ている。それは今後のビジネスの背景となるものだ。
たとえば環境問題だ。現状だと企業や政府の温暖化対策は、単なる人気取りのポーズに堕し、本当に実効性があるか疑わしいものばかり。でももし人が、本当に温暖化を重要な問題と考え、いずれ迷走しつつも最も合理的な方向に向かうとすれば、本書にある通り技術開発への投資が必要だし、原子力発電所も再び増える。いまから10年後、20年後のビジネスを考えるなら、そうした取り組みを自社の事業とどうつなげるかを考えねばならない。
これは他の話でもそうだ。社会は二極化して崩壊するのか? 人工知能で人間はすべて代替されるのか? 技術面でも、カーボンナノチューブの高効率太陽電池が実現するかどうかはわからない。だけれど、どこかで遺伝子組み換え作物への偏見は減り、いまより導入は進むはずだ。それがビジネスの方向性に影響しないわけがない。
もちろん、ピンカーの主張が万能で無謬というわけではない。また技術変化で平等や人権概念が変われば、啓蒙主義も変化をよぎなくされる。さらに当然ながら、ピンカーが期待するほど人間は賢くなくて、啓蒙主義がふみにじられ、変なドグマがすべてを支配する社会になる可能性だってある。が、そこまで言い始めるときりがない。
つまるところ、ピンカーの本が与えてくれるのは、今後の世界と人類がたどりそうな大きなトレンドの、説得力ある一つの形だ。それは基本的には、世界のあり方についての教養ということでもある。だからこそ、ビル・ゲイツや各種ビジネス雑誌も、ピンカーの著書を大いに奨めているわけだ。大儲けのネタになるかはわからないが、おそらくある程度押さえておかないとビジネス的に大きくはずすことにはなる、そういう代物ではあるのだ。
さてここまでピンカーのビジネス的な可能性について、多少こじつけもまじえて考察してきた。でも個人的にはそんなこと以上に、どの主張もすぐにどうにかできるものではないんだし、そうした損得勘定ぬきで読んでみてほしいとは思う。書きぶりはべらぼうにおもしろいし、それに何はなくとも、自分の世界に対する視野は広がる。それが、多少なりとも仕事上の視野の拡大につながらないわけがないと思うのだけれど。そして、それこそがピンカーなどを読む、ビジネス上の最大の御利益であるはずだ。
【NewsPicks Publishing Newsletter vol.1(2019.11.29配信)より再掲】
NewsPicksパブリッシングでは毎月1本、ニュースレターを発行しています。購読を希望される方は、以下よりメールアドレスをご登録ください(無料)。