ケヴィン・ケリー:テクノロジーを生命の進化から考える(松島倫明)#3
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松島倫明|Michiaki Matsushima
『WIRED』日本版編集長。これまでに「ニューエコノミー」「デジタル・ウェルビーイング」「ミラーワールド」「ディープテック」などを特集してきた。東京都出身、鎌倉在住。NHK出版で主に翻訳書の版権取得・編集・プロモーションなどに従事。本稿のテーマであるケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの』をはじめ、『FREE』『SHARE』『ZERO to ONE』『シンギュラリティは近い』『BORN TO RUN』など数多くの話題書を手がける。2018年より現職。
人類は7万年前の脳の突然変異によって、文化的飛躍を遂げたという。脳の前頭前野の発達がゆっくりになったことで、かえって複雑な再帰構造の文章やその語句と関係性を理解できるようになり、「どんな計画でも頭のなかでシミュレートする前例のない能力と、それらを仲間に伝達するという同じく前例のない能力」を手に入れて、技術進歩の急激な加速をもたらしたのだ。
こうした“プロトタイピング”の想像力は、例えばシリコンヴァレーをはじめとする米西海岸のカルチャーを牽引してきたとも言える。そこに胚胎するハッカー的マインドとは、つまりはまずプロトタイプをつくって検証する、うまくいかなければ素早くつくりなおすというその一連のプロセスのことで、単なるテックスタートアップだけでなく、いまやIDEO的なデザイン思考からメイカームーヴメントにまで浸透している。
その米西海岸で1993年に創刊されたテック/カルチャー/ライフスタイル誌『WIRED』の創刊エグゼクティヴエディターを務めたケヴィン・ケリーは、まさにそんな意味でのカリフォルニアン・イデオロギーの体現者だ。彼を一言で表すのは難しいけれど、世界を放浪したヒッピーであり、サイバーカルチャーの産婆役であり、「新しいアイデアはまず試してみよう」という進歩的プラグマティストで、つまりはぼくらの同時代のBig Thinkerのひとりだ。
科学者でも未来学者でもなければ生粋のジャーナリストということでもない(『WIRED』が標榜するのはゴンゾージャーナリズムだ)、エンジニアというわけでも、きらびやかな起業家というわけでもなく、いわばそれら全てだとも言える。ネットワークによってあらゆる知の専門分野が横断、拡張される「いま」という時代が生んだ、典型的な知識人だと言えるだろう。
彼の近著となる『THE INEVITABLE』(邦訳は『〈インターネット〉の次に来るもの』NHK出版)は2016年に刊行された。副題「未来を決める12の法則」にある通り、これからの30年を見通す大きな潮流を、現在進行系(〜ing)のキーワードで整理してみせたものだ。
1.BECOMING —ビカミング
2.COGNIFYING —コグニファイング
3.FLOWING —フローイング
4.SCREENING —スクリーニング
5.ACCESSING —アクセシング
6.SHARING —シェアリング
7.FILTERING —フィルタリング
8.REMIXING —リミクシング
9.INTERACTING —インタラクティング
10.TRACKING —トラッキング
11.QUESTIONING —クエスチョニング
12.BEGINNING —ビギニング
この記事をお読みのビジネスパーソンにとって、これらは明日の会議ですぐに役立つものではないかもしれない(ビジネス書グランプリを受賞してはいるのだけれど)。どちらかと言えば、「スロー・ディスカッション」におあつらえ向きの、時代の底流に流れる意味と文脈をすくい取ったものだ。たとえば、今年のCES2020の会場には「コグニファイング」が溢れていたよね、といったようにその汎用性の高さは保証しよう。
ただしこうしたキーワードは、ケヴィンの壮大なスケールの思索のうち、まだほんの表面をチラ見したものに過ぎない。彼の思考の要諦は、例えばこれがなぜすべて「〜ing」という進行形で表現されるのか、という問いにこそあるとぼくは思っている。つまりはある種の動的で自立的な、「自己生成」するものこそが、彼が一貫して魅了され追いかけてきた世界なのだ。
機械と生命が共進化するその処女作
それは彼が1994年に上梓した処女作である『OUT OF CONTROL』(邦訳は『複雑系を超えて』アスキー出版局)から一貫している。ちなみに同書は、かのウォシャウスキー姉妹が1999年の映画『マトリックス』を撮る際、キアヌ・リーヴスに読むよう指示した課題図書3冊のうちの1冊だ(あとの2冊はジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』とディラン・エヴァンス『Introducing Evolutionary Psychology』)。
その冒頭にはこう書かれている。「Machines are becoming biological and the biological is becoming engineered.(機械は生物になり、生物は人工物になっていく)」(ここでも「ビカミング」だ)。本書の副題「The New Biology of Machines, Social Systems, and the Economic World」が示すとおり、これは当時勃興しつつあった「人工生命(ALife)」に出合ったケヴィンがそこで大いなる刺激と着想を得て、機械や社会システムや経済といったテクノロジーと人間の関係を、生物学的な進化(あるいは共進化=Coevolution)から捉えなおそうとした決定的な一冊だった。
あるいは(放浪の旅から帰国後の)80年代において、ヒッピーカルチャーを代表する雑誌『WHOLE EARTH CATALOG』(WEC)のオンライン版で、世界で最初期のオンラインネットワークだった「WELL(The Whole Earth ‘Lectronic Link)」というコミュニティを運営していたケヴィンが、そこに自己生成するネット社会の到来を強烈に予感したことも、本書への補助線としてあったはずだ(ちなみに、『WIRED』はこの中のコミュニティとして最初に立ち上がった)。
進化論、人工生命、テクニウム
その思索が結実したのが、彼の代表作ともいえる2010年の『WHAT TECHNOLOGY WANTS』(邦題は『テクニウム』みすず書房)だ。これは、生命を「自己生成する情報システム」と定義し、進化生物学を牽引したジョン・メイナード・スミスらによる生物学的情報の段階的変化(単一の分子から言語へ)を、そのままテクノロジーの段階的変化(言語からグローバルで遍在的なコミュニケーションへ)に敷衍するものだった。
ちなみにこのジョン・メイナード・スミスらの研究がドーキンスの『利己的な遺伝子』へとつながっていき、本稿「スロー・ディスカッション」の第1回で山形浩生さんがスティーヴン・ピンカーの紹介で論じたように、90年代の進化論ブームへとつながっていく。根っこは同じなのだ。
そのなかでケヴィンのテクニウム論がユニークなのは、テクノロジーをもまた自己生成可能な情報システムと捉え、この地球上に生命が誕生し人類が進化してきたように、テクニウム(ハードウェアだけでなく、あらゆる種類の文化、アート、社会組織、知的創造のすべてを含む)もまた、生物の第七界として、生命と同じように進化していくと論じる点だ(ちなみに生物の界とはたとえば細菌界や原生生物界、菌界、植物界、動物界といったものだ)。
そのポイントをふたつ挙げるなら、ひとつは進化には必然があるということだ。これは「収束進化」と呼ばれる。例えば生物的カメラである眼は、単線的に進化したのではなく、さまざまな生物種において独立して何度も同じ進化を果たしている。ただこの説は必ずしも生物学における定説ではなく、進化は偶発性と不規則性によって規定されるというのが正統派の解釈だ。
かつて進化生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールドは、「ホモ・サピエンスは、ある実体であり傾向でなない」と主張した。でもケヴィンがここで繰り返し問うているのは進化の構造的必然性であって、それを総括すると「ホモ・サピエンスは、ある傾向であり実体ではない」となる。つまりぼくたちはみな、ある生成(〜ing)の途上にあるというわけだ(ちなみに「私という存在は動詞のようだ」と言ったのは、WECの常連でもあったかのバックミンスター・フラーだ)。
イノヴェイションは必然的に起こるのか?
同様に、テクノロジーにも収束進化があって、例えば電話の発明はアレクサンダー・グラハム・ベルの功績に帰せられるけれど、それは彼がエリシャ・グレイよりも3時間早く、特許を提出したからだ。そしてグレイ以外にも、当時すでに電話を発明していた人物は何人もいた。つまり、ベルの電話という実体(それが世に出るかどうか)は必然ではなかったけれど、電話というテクノロジーの傾向自体(歴史に登場してくること)は必然だったというわけだ。
これは電話に限らず、電球やトランジスターやスマートフォンにも当てはまる。iPhoneは必然ではないけれど、スマホは必然ということだ。こうしたイノヴェイションには構造的必然があり、ある種の段階を踏んだ臨界点を超えると、次のテクノロジーが出現する。先ごろ亡くなったクレイトン・クリステンセンの「破壊的イノヴェイション」とは、突然に生まれるものではないということだ。
テクニウムのもうひとつのポイントとして「非物質化」を挙げたい。これは上の「実体よりも傾向」と通底するもので、やはり『OUT OF CONTROL』で描かれた、実体をもたない生命たち(Alife)からつながるコンセプトだ(器官や組織といった部分/実体を積み重ねても生命という全体/傾向にはならないというのはまさに全体論[ホーリズム]の考え方でもある)。テクノロジーはますます非物質化を進めている(手元のスマホを見てもらえば分かるだろう。昔はカメラも電話もオーディオも別々のものだった)。
ケヴィンはそれを「エクソトロピー(exotropy)」という語をあてて説明する。ご想像通り、これはエントロピーの反対語であり、ざっくりと定義すれば「情報の流れによる秩序の増加」を表す。テクニウムとはつまり、エクソトロピーが増大していく界であって、やがてそれは人間の手を離れ、グローバルで遍在的なコミュニケーションとなり、非物質化し自己増幅を繰り返して宇宙全体へと拡がっていく(さぁ、大きな話になってきた)。
シンギュラリティ、あるいは叡智圏へ
テクニウムの始まりは、「約1万年前に、地球が人類を変える力を、人類が生態系を変える力が上回るという転換点」だった。これはいまなら、地質年代でいうアントロポセン(人新世)として定義されるだろう。だがいまや、「テクニウムが人類を変える力が、人類がテクニウムを変える力を上回るという次の転換点を迎えている」。これはシンギュラリティ(技術的特異点)だとも言えるけれど、「まだ決定的な名前はない」とケヴィンは言う。ポスト・アントロポセン、あるいはガイア理論を唱えたジェームズ・ラヴロックの新著ではノヴァセン(Novacene)と定義できるかもしれない。
ケヴィンはそこへと至る進化の道を「必然」として描いている。ここで、彼の『〈インターネット〉の次に来るもの』の原題が『THE INEVITABLE(必然)』だったことを思い出してほしい。同書の最終章「BEGINNING」で彼は、地球大のネットワークが生み出す新たな生命としての「HOLOS」(これもホーリズムからくる言葉だ)を提示する。それはあたかもALifeのように、テクニウムが第六界に属する人間を遥かに超えて進化していくものだ。
こうした思考の源流は、約100年前にロシアの科学者ウラジーミル・ヴェルナツキーやフランスの思想家テイヤール・ド・シャルダンが提唱した「ノウアスフィア」にあるとも言える。これは生命活動が地球を変えていく「生物圏(バイオスフィア)」の次に、いわば人間の思考に満ちた「叡智圏(ノウアスフィア)」が到来するというキリスト教的進化論の一種で、例えばレイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」やユヴァル・ノア・ハラリが言う「ホモ・デウス」もそのアップデート版だと言える。
ポスト・アントロポセンを紡ぐ思想
ただし、カーツワイルやハラリの描く未来が「強いシンギュラリティ」だとすれば、ケヴィンは自らのHOLOSを「弱いシンギュラリティ」だと定義している。『OUT OF CONTROL』を思い出していただければ想像できるとおり、ケヴィンが捉えた共進化においては、菌と植物と動物が共存しているように、テクニウムもまた共存する。つくられたもの(made)と生まれたもの(born)を区別しない、という意味で、彼はそれをヴィヴィシステム(生命的システム)と呼んでいる。
一方で『WHAT TECHNOLOGY WANTS』においては、オーストリアの思想家イヴァン・イリイチの言葉「コンヴィヴィアル(自立共生的)」を挙げて一章を割いている。こちらの語源は「生命と両立できる」という意味だ。イリイチは自立共生的な道具として「自律的な個人や一次集団の寄与を拡大するもの」とする。でもケヴィンは、このコンヴィヴィアリティは個別のテクノロジーに内在するというよりも、テクニウム(テクノロジーを構築するための仕事の配分、文脈、表現のなか)にこそ存在すると確信している。テクノロジーは自立共生的になるほど、生物や生態系の抽象的な特徴へと近づき、生物の第七界、つまりテクニウムをドライヴさせていく。こうした世界観にはベイトソン的な意味での全体論へのパラダイム・シフトを希求する態度がうかがえるはずだ。
かつてケヴィンは「科学だけがニュースだ」と言っている。ややもするとイケてるテクノロジーやスタートアップやその虚像の創業者だけがメディアに踊るこの四半世紀において、ケヴィンは『WIRED』というテック/カルチャー/ライフスタイル・メディアの創刊エグゼクティヴエディターとして、科学分野を縦横無尽に踏破しながら思索を紡いできた。専門家が白目を剥くことにも果敢に領域侵犯していくのは、いわば科学の再魔術化であり、現代において脱領域化していく「編集者」の真骨頂だ。
テクニウムが人類を変える力が、人類がテクニウムを変える力を上回る瞬間を、ぼくらはもう超えているのだろう。だからこそケヴィンの思考は、アントロポセンの次の時代(それをテクニウムの時代と呼んでもいいだろう)に必要とされるものなのだ。彼の著作の背景にあるもっと大きな「意味と文脈」を本稿によって少しでも体感していただけたなら、それ以上の喜びはない。それこそが「スロー・ディスカッション」の本義だし、『WIRED』というメディアがケヴィン以来、綿々と紡いできた価値だとぼく自身は自負しているからだ。
【NewsPicks Publishing Newsletter vol.3(2020.1.31配信)より再掲】
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