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はじめに —— 『公〈おおやけ〉』 #1

猪瀬直樹の作家生活40年の集大成とも言える作品、『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う 』発売を記念して一部を無料公開いたします。
他の国にはある公への意識が、この国には見られないのはなぜなのか。明治から令和まで、日本近代の風景を縦横無尽に描く力作です。私たちNewsPicksパブリッシングは新たな読書体験を通じて、「経済と文化の両利き」を増やし、世界の変革を担っていきます。

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はじめに

コロナ禍はなかなかの辛い経験だった。あたりまえだと思っていた日常生活が正面から否定されるなど考えてもみなかったのではないか。だがそういうときにこそ、変革のチャンスが訪れているのだ。
 
歴史を顧みてこれからの日本を創造するための壁はどこにあるか、その壁をどう突破したらよいか、少しでもヒントになれば、そういう気持ちが本書をしたためた動機であった。
 
現代人があたりまえのように享受している働き方や人生の楽しみ方、あるいはライフスタイルそのものまで、コロナに翻弄されてしまった。江戸時代末期に黒船が来航すると、一転して我われは憑かれたようにあらゆるものをモデルチェンジした。その結果、欧米列強による植民地化を免れ、国民国家として独立を維持することができた。モデルチェンジのきっかけは外圧だったが、徳川幕府を転覆させ、軍事政権から一君(天皇)万民というネーション・ステート(国民国家)へ切り換える考え方も、じつは文化的には熟していたのである。
 
コロナ禍を、黒船という外圧に匹敵する歴史的事件としてとらえ、バブル崩壊以降の下り坂の日本システムを立て直す好機としよう、そういう主張はもはやめずらしくはない。だが問題は内実である。
 
表面的に変わることはできるだろう。満員電車による通勤からテレワークへ、教育施設のオンライン化、中央から地方への雇用のシフトなど、おそらく見えやすいところの動きは始まる。
 
だがほんとうに変わるのか。変えられるのか。変わろうとするのなら、この国に本質的に欠けているものが何なのかを理解しなければならない。それが、本書のタイトルでもある「公」という概念だ。
 
「公」と耳にして、その意味が何だかわかったようでいてよくわからない、それが正直な実感ではないかと思う。
 
だから僕はいまここに、コロナ禍において、ドイツのグリュッタース文化大臣がアーティストやクリエイターを「生命維持のために不可欠な存在」と言い切って、真っ先に給付金を支給したところに「公」の意味のヒントがあることを示したい。

「ほんの少し前まで想像だにしなかったこの歴史的状況において、我われの民主主義社会は独自で多様な文化および(独自で多様な)メディア界を必要としている。クリエイティブな人びとのクリエイティブな勇気が危機を乗り越える力になる。我われが未来のためによいものを創造するあらゆる機会をつかむべきだ。アーティストは不可欠な存在であるだけでなく、いままさに生命維持に必要な存在なのだ」

コロナ禍で戦いの前線にいる医療や介護に従事する人、またライフラインを司るエッセンシャルワーカー(生活に欠かせない仕事の従事者)は必要だ。だがそれだけでなく、アーティスト、作家、クリエイター、フリージャーナリストなど今後の社会を創造し、デザインする人たちの戦いに強い期待感を表明している。

我われはともすれば「公」は、司法・立法・行政の側、「官」にあるものと思いがちである。あるいは新聞・テレビ・出版社などの会社(サラリーマン)メディアにその役割を期待している。しかし、これらは「公」の一部にすぎない。

ドイツの文化大臣が述べる「独自で多様な文化および(独自で多様な)メディア界」は「官」の下僕であるような日本のメディア界と同じではない。「クリエイティブな人びとのクリエイティブな勇気」にこそ「公」が宿っているのである。

彼らによって新しい世界のビジョンがつくられるのであり、ビジョンがなければ我われはアフター・コロナを生き延びることができない。

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日本は行政機構が肥大化した特殊な国家だ。つまり官僚主権の国家である。官僚機構はシンクタンクと行政の執行機関を兼ねている。国家ビジョンを官僚機構がつくっている。

本来なら「独自で多様な文化および(独自で多様な)メディア界」が「公」であり、「クリエイティブな人びと」がビジョンをつくり、その下請けが行政機構であるはずた。

ところが日本で文化庁のサイトを見れば「文化芸術に関わる全ての皆様へ」という文化庁長官の言葉が載っている。「困難に直面した人々に安らぎと勇気を与え、明日への希望を与えてくれたのもまた、文化芸術活動」という言い方、物足りない。
 
たしかにアートの一面を示しているが、癒やしだけでなくもっと激しい意志が宿っていてよいはずだ。「文化芸術の灯を消してはなりません」とも記されているのを見ると、日本ではアーティストが保育器のなかで保護されるようなものと捉えられていることがわかる。
 
アートを日本語にすると、狭い枠組みのなかでの特権的で趣味的な文化芸術にされてしまう。生命体としての社会全体を駆動させる表現活動の総体としての位置付けが消えてしまう。おまけのような存在でしかなく「公」から遠ざけられている。

これからの日本の危機を乗り越えるには「クリエイティブな勇気」を総動員するしかない。コロナ禍という外圧をきっかけに、「あらゆる機会をつかむ」のだ。そのためには「公」の意味をつかみ直す必要がある。

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本書は、コロナ禍のなかの日本の針路を決める意思決定についての分析を第Ⅰ部とし、第Ⅱ部に 黒船来航によって転換した日本で、どのように言論・文化を担う人びとが現れたのか、現在のデジタル空間にどうつながっているかを描いた。第Ⅲ部では、作家として日本独特の政策決定システムである官僚機構に対峙した経験から、その教訓を導き出したつもりである。少し長い回り道となるが、最後まで読んでいただければ表層ではなく本質からこの国を理解するために、「公」の一文字が欠かせないことをわかってもらえるはずだ。

(新型コロナウイルスと意思決定—— 『公〈おおやけ〉』 #2 へ続く)

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【目次】
はじめに
第Ⅰ部 新型コロナウイルスと意思決定
第Ⅱ部 作家とマーケット
第Ⅲ部 作家的感性と官僚的無感性