大学院での挫折~哲学エンジニアのライフヒストリー(6)~
間が空いてしまったライフヒストリーの執筆を少しずつ再開したい。「虚無の淵に立っている」が一つのキーワードとなっていたが、まさに大きな不安を抱えての京都での暮らしが97年の4月から始まった。
出迎えてくれた京都駅はリニューアル工事中で、アバンギャルドな新駅舎が京都市民の議論の的となっていた。今やこの駅舎もなじんだ風景になってしまった。
京都大学近郊の北白川の疎水沿い(北白川西瀬ノ内町)にアパートを借りて新生活を始めた。京都市は狭いイメージがあるが、御影通りから歩くと10分以上かかり意外に広く感じた。憂鬱な思いを抱えてトボトボ歩いた記憶がありありと蘇ってくる。
大学には、紆余曲折の末に私より2学年下の高校時代の同級生が一人だけいて、あとは誰も知り合いがいない寄る辺ない状態だった。
辛い思い出も多いので、今となっては時系列で客観的に整理するのも困難だが、研究発表やゼミに出ては常に品定めされる視線を浴びて、自分の至らなさにガックリ来ることが多かった記憶が残っている。ピアレビューは、内容のレビューだとうたうものの、実際には能力のレビューも混ざっていて、現代で言うところのガスライティングもあったように思う。
いまの生業でDR(Desing Review)が設計のレビューではなく、「なんで仕様をきちんと踏まえていないんだ」と罵倒する会になりがちなところにも通ずるところがあるように思う。内容を精査するという大義名分のもとストレス発散のはけ口になっている点があるはずだ。
それはさておき、とにかく辛かったのは、将来の展望が見えないことだった。我慢して良いポストが得られるのであればまだしも、幾人もの就職できないオーバードクターが研究室の主(ぬし)のように鎮座して、何とも沈鬱な雰囲気に包まれていた。
意外だったのは、飲み会の席で決まって出てくる愚痴が、今年も科研費をゲットできなかったボヤキとか、哲学のポストと予算を減らし続ける文部省(現・文科省)の役人を呪う口上だった。
これでは俗世間と変わらないではないかというツッコミどころがあるのだが、それ以上に、文部省の役人に首根っこをつかまえられている様子であったのが意外であった。大学教授と言っても何の権威もなく、小役人にこき使われるそのまた小間使いに過ぎないのだなと落胆した。アカデミズムにおける我慢の先にはこの程度の状況しか待ち構えていないのかと。
あぁ、アカデミズムの現場はこんなに凄惨のかと愕然とした。何も知らずに金沢から不安な気持ちを抱えて全国区の大学院に上洛した青年にとっては十分な精神的なダメージであった。今のようにネットで現場の状況をそれとなしに察することは困難な時代であった。OBの口コミ情報くらいしか情報入手の術はなく、せいぜい事前に大学院の院試過去問を現地訪問して入手した程度であった。
Twitterで○○大学合格を目指すハッシュタグで受験勉強を励まし合って、大学合格後に初めて顔を合わせて、また歓喜の涙でむせび泣くということが近年のSNS事情らしいが、昔日の感がある。
同期の修士課程のメンバーに恵まれたり、指導教官は温厚な方であったりしたが、このような構造上の問題の方が深刻で、私の心は苛まされて3か月後には、タウンページで見つけた最寄りのメンタルクリニックの門をくぐることになった。
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