大牟田での転地療養~哲学エンジニアのライフヒストリー(8)~
97年4月からの京都での新生活で挫折して、98年の4月に転地療養を決断することとなる。と同時に、もう一年休学を更新することになる。指導教官は人格者だったこともあり、その方針は受け入れられた。
転地療養先は大牟田市にある「海の病棟」である。両親が読売新聞に掲載されていた記事を見つけてくれた。電話して現地訪問して入院を依頼したら、スケジュールを組んでくれて4月末から入院することを許可してくれた。
当時は寝台特急が健在で、京都から寝台特急あかつきの自由席に乗って、いったん博多駅で降りて当時1杯1000円のウニいくら丼を朝食にとって、そこから在来線でJR大牟田駅まで向かい、タクシーに乗って海の病棟まで向かった。
海の病棟とは、軽症のうつ病患者を癒すための治療病院であり、海のゆらぎと広がりが人を包み込み心を癒すという意図から水面と一体化する空間として有明海を望む堂面川沿いに、長谷川逸子氏の設計のもと建築されている。堂面川は数日晴天になると「ガタ」になることが多く、いわゆる干潟のことなのかもしれないが、独特の味わいを持っている。
食事が食べ放題であったこともあり、味付けもおいしくやたらと大量に食べていたような記憶がある。思い出に残っているのはリンゴ牛乳である。数日に一回、学校給食の牛乳のノリで出てくるのだが、フルーティーな乳製品という独特の味わいでとても美味しかった。
このたび初めて知ったのだが、2012年に生産中止になってしまっていて、昨年から2年連続で期間限定生産を再開させているようだ。来夏はぜひ入手してみたい。
こちらに入院したらすっかり元気になってしまい、うつ病であるのが信じられないとずいぶん奇異な目で見られた。西鉄電車に乗って福岡天神の街に出たり、大牟田の旧市街地である新栄町を散策したり、阿蘇のふもとで豊かな水と戯れて軽いキャンプをしたりもした。
当時の新栄町は松屋百貨店や井筒屋百貨店があり、炭鉱でにぎわった昔日の繫栄のおもかげを偲ぶことができた。松屋百貨店のほど近くにあった、はらコーヒーに仲間とともに出かけたことが何度かあった。ウィンナーコーヒーがとても美味しかった記憶があるが、両百貨店もはらコーヒーも閉業されたようだ。Googleストリートビューで新栄町付近をのぞき込んでみても、当時の記憶の断片が跡形もなく消えてしまっており、記憶と現実を結び付けるのが困難な状況になっている。
こうやって記録をしていると楽しそうに見えるのだが、途中で何らかの薬が処方されて苦しい思いをした記憶がある。おそらくはドクターの判断でテンションを下げようとしたのであろう。それからは回復の気配がなくなり、沈む日々が多くなった。浮上を図ろうとして無理やり楽しみを見出そうとしていたところが多分にあった。
明白な悪化が見られない限りは概ね3か月で退院することが半ば義務付けられており、タイムリミットの8月のお盆前に退院することになった。最後に島原に行きたいと思い、三池港からフェリーに乗って雲仙のホテルに泊まり、島原城やその近辺を散策した。
大牟田から眺める雲仙普賢岳の光景は迫力があり、ぜひとも訪問したいと思っていたので雲仙で宿泊できたのは本当に良い思い出になった。島原の城下町もきれいなところだった。
8月上旬に両親に迎えられて退院することになり、福岡で一泊して福岡ドームでダイエーホークスの試合をデーゲームで観戦することとなった。福岡ドームスタンドの階段の傾斜が急であったことが印象的だった。
当時20歳くらいだった城島捕手がエラーか何か下手をこいて、途中で内之倉に交代させられたことと、地元富山県黒部市出身の湯上谷がホームランを打ったことを覚えている。
ウィキペディアを見ると、これが彼の現役最後のホームランであったことが分かった。短距離打者であったことを思うと、とても貴重な機会に立ち会うことができた。
当時は富山-福岡便があり、その後両親とともに福岡空港から飛行機で実家にいったん帰省した。九州大学の大学院も候補の進学先であったから、福岡には何かと縁があったのだと思う。
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