【歌い手史2014〜17】ボカロからの独立 まふまふの革命—第2の意味の否定【歌い手史を作るプロジェクト】
第2の意味「ボカロ曲をいわゆるJ-POPのように歌うユーザー」として新たな歩みを始めた歌い手たちは、2013、14年頃、さらなる躍進を遂げた。
ボカロ人気にあやかったことで、再生回数は順調に増加し続けた。スマートフォンの普及などによって新たにネットを利用し始めた若年層を取り込み、ますますファンを増やした。
メジャー進出も加速し、ネットシーンからデビューというルートもほとんど完全に確立された。それを称揚するような記事も増えていた。
メジャーへの道が出来たことで、デビューを目指して新規に歌い手として活動を始めるユーザーも現れ始めた。
歌い手の世界は、ますます活況を呈していた。
ーーだが実は、その裏では不穏なうわさが飛び交っていた。
ボカロの人気が落ちてきているのでは、との指摘だった。
◆ボカロ人気の衰退
2007年8月の初音ミク発売以来、ボカロ文化は快進撃を続けてきた。
発売直後はいわゆるオタク層に受け、ニコニコ動画を舞台にヒット。その後は若年層を中心に浸透し、2011年にはGoogle ChromeのCMにまで採用された。
ボカロ曲「千本桜」や「カゲロウプロジェクト」などの人気もあり、2012年ごろにはその地位を確固たるものにしていた。
だが、そのヒットの裏で、徐々にブームに陰りが見えてきていた。
はじめにその兆しに気づいた人は、なんとなく口にした。
最近はあまり新人が発掘されない。新規の楽曲の再生回数が伸びない。
ごく少数のユーザー、ボカロPなどがちらほらと口にした。
けれどもその時点では、あまり大きな話題にはなっていない。この時は「千本桜」や「カゲロウプロジェクト」のヒットもあり、あまりその実感はなかった。
ほとんどのユーザーは、そんなことを微塵も気にしていなかったと言っていい。
だが、2013年後半ごろには認知され始め、2015年には誰もが知るところになっていた。界隈の様相が一変し、メディアで取り上げられる回数も、減少に転じていた。
歌い手たちの間でも、この話題は飛び交っていた。——というよりも、話題にせざるをえなかった。
ボカロ人気の低下が明らかになった2014年前後の歌い手たちは、第2の意味「ボカロ曲をいわゆるJPOPのように歌うユーザー」として確立されていた。
彼らのメジャーデビューはそうした色彩の強いものであったし、歌ってみたの大半もボカロ曲が占めていた。
いうなれば、歌い手はボカロ文化の一部として完全に組み込まれていた。
だから歌い手たちにとって、ボカロ人気の衰退は死活問題だった。
ボカロ人気が落ちてしまえば、それに伴って歌い手の人気も落ちてしまいかねない。再生回数が落ちるのはもちろん、せっかく手にしたメジャーデビューへの道も消えてしまいかねない。
この事態に気づいた歌い手は、その対処法を探し始めた。
自分たちの築き上げた文化を守るためには、何が出来るのだろうか。どうすれば、人気を維持できるのか。
“まふまふ”という歌い手は、それを考えた一人だった。
◆革命家・まふまふ
歌い手について少しでも知っている(と自認する)人であれば、まふまふの名を知らない人はいないだろう。2021年には、彼は歌い手を名乗る者として初めて、東京ドームの舞台に立った。
あの日、白髪の少年のような姿で彼は一人、ステージの上に立っていた。
以前に企画した東京ドームライブがコロナ禍で中止となり、舞台は無観客のオンラインライブだった。
彼の周りでは、演奏や機材を担当するスタッフだけが動いていた。演者は一人しかいなかった。
心細かった。観客の顔が見えない怖さもあった。けれどもそれ以上に、そのステージに立てたことがうれしかった。
彼はただ一人で、画面越しに叫んだ。
彼が言う革命とは、彼が何かを成し遂げたという意味ではない。
彼が名乗る「歌い手」という存在が、ついに東京ドームライブまで達成したという意味である。
かつて歌い手は「歌い手(笑)」と実力不足と揶揄されたこともあった。それを見返すほどの実績ではないか、と彼は訴えたのだ。
彼はそれがひどくうれしいと思うほど、歌い手という肩書にアイデンティティを置いていた。
まふまふは1991年生まれ。歌い手としてデビューを果たしたのは、2010年12月。当時は立教大学在学中だったと言われている。
ボカロ曲「闇色アリス」の歌ってみたをニコニコ動画に投稿し、歌い手としての歩みを始めた。
当時の彼は、バンドを組んでいたという。
ただ特段、目立った活躍はしていなかったようだ。当時のツイートを遡ってみても、大きな話は出てこない。
歌ってみたの2作目を投稿するまでは、半年ほどの期間が空いた。1作目はあまり反応が芳しくなかったからだろうが、その後は精力的に投稿を重ねた。
2012年には、30本以上という驚異的な本数を投稿。反応は徐々によくなり、モチベーションは高まった。この時期に、ボカロ曲「千本桜」の歌ってみたで、初の1万回再生を達成した。
まふまふには歌い手という存在が、徐々にいとおしく思えるようになっていった。バンドでくすぶっていた自分に、活躍の舞台を与えてくれた。その文化自体が、かけがえのないものになっていた。
2014年には歌い手・天月とコラボした動画で初の100万再生を達成。のちにユニットAfter the Rainを組む“そらる”などともコラボを重ね、2015年ごろには人気歌い手の仲間入りを果たしていた。
◆「歌い手」を存続させるために
まふまふは早い時期——ボカロ人気の衰退が明らかになる前から危機感を抱いていた。
歌い手=「ボカロ曲を歌うユーザー」という立場ではいつか立ちいかなくなるのではないかと、歌い手という存在に先はあるのかと、不安を抱いていた。
特定ジャンルの曲を借りるだけの立場に、未来はあるのか——。
ボカロと歌い手が不可分なのは確かだろう。だが、このままボカロ文化の一部として生きていいものか。その先に未来はあるのだろうか。
彼の眼には、どうしてもその未来が明るいもののようには見えなかった。
特定のコンテンツに頼りきりの二次創作文化が、発展し続けられるわけがない。いつか消えてしまう確信があった。
どうしたら、この状況を覆せるのだろう。
彼の眼には、歌い手というコンテンツ全体が映っていた。彼は自分自身だけじゃなく、歌い手という文化全体が生き残ることを目指した。
ぼくには何が出来るのか——。
まふまふが選んだのは、オリジナル曲を作るという道だった。
◆枠組みを組み替える
オリジナル曲を作ることが、何になるというのか。
それは、当時の歌い手像「ボカロ曲を歌うユーザー」を解体し、それによって歌い手に迫る危機を回避しようとする試みだった。
この当時、歌い手とは「ボカロ曲を歌うユーザー」、いってしまえば“ボカロ楽曲を歌うだけの存在”だった。
だからこそ、ボカロの人気衰退とともに歌い手の人気も衰えてしまう危機が訪れていた。
そこでまふまふが考えたのが、“ボカロ曲を歌うだけの存在”という部分を取っ払うことであり、そのための手段がオリジナル楽曲を作るということだった。
そもそも、“ボカロ曲を歌うだけ”という性質があるからこそ、こんな危機が訪れているのである。
だったら、それを組み替えてしまえばいい。
歌ってみたの投稿と並行して作曲を続ければ、ボカロ曲を歌うだけの存在とは言われなくなる。ボカロ曲によりかかるだけの存在ではなくなる、と彼は考えていた。
◆ヒャダインの蔑視
当時、歌い手がオリジナル楽曲を作ることは珍しかった。1、2曲作ることはよくあったが、本格的に作る歌い手はほとんどいなかった。
ニコニコ動画で活動していた音楽家・ヒャダインは、2011年のインタビューで語る。
彼の言葉の中では、歌い手がオリジナル曲を作ることは想定されていない。
あくまで、歌い手は歌うだけの存在。
ヒャダインの言葉には、こうした認識がよく現れている。
こんな時代に“歌い手として”オリジナル曲を作るのは、まさに革命的な発想だった。
2012年5月。まふまふは初のオリジナル楽曲「DAYBREAK」をニコニコ動画に投稿する。次いで同年9月、「夕暮れ蝉日記」を投稿。第3作「仇返しシンドローム」では投稿ペースが上がり、同年12月に投稿した。
はじめは、投稿した作品の再生回数はあまり芳しくなかった。原曲の人気による後押しが得られなかったからだろう。
しかし、まふまふは諦めない。
彼は何度も何度もオリジナル楽曲を投稿し続けた。2013、4年にはそれぞれ10曲以上、さらに2015年には20曲も以上も投稿した。再生回数も徐々に伸び、同人CDの頒布などもした。
有名なボカロPたちにも決して劣らない活動量だった。
◆作曲する歌い手たち
まふまふと時を同じくして、他にも多数のオリジナル曲を作る歌い手が他にも現れ始める。夏代孝明やEveなどが、彼と同じか少し後に台頭し始める。
彼らの活動に対して、ユーザーたちは当初は何の反応も示さなかった。
ただの個人の歌い手でしかない彼らがオリジナル楽曲を作り続けていたところで、何か反応をする理由もなかった。
大多数は別に何も思っていなかったし、歌い手=「ボカロ曲をJ-POPのごとくに歌うユーザー」という認識を変える必要も無かった。
歌い手はあくまで曲を借りるだけの存在という認識は、強固に保たれ続けた。
だが、やがてゆっくりではあるが、「ボカロ曲をいわゆるJ-POPのように歌うユーザー」という認識に徐々に綻びが生まれ始める。
その綻びを生み出したのは、彼ら自身の人気の上昇だった。
まふまふの例を挙げよう。初めてオリジナル曲を投稿し始めた2012年、彼は少し勢いがある歌い手の一人に数えられる程度でしかなかった。
だが2016年ごろには、トップランナーの1人に数えられるほどの人気を得ていた。歌い手DBにもランクインしている。
界隈のトップランナーの影響は、ただの1人の歌い手とは比べるべくもない。
ユーザーたちはその存在を無視するわけにもいかず、「ボカロ曲をいわゆるJ-POPのように歌うユーザー」という認識を口にすることを徐々に憚り始めた。
たしかにボカロ文化と縁は深いけれども、それを歌うユーザーというわけではない——といった程度に、疑問を抱きはじめた。
その疑念はさらに、他のオリジナル曲を作る歌い手たちがトップランナーとして躍り出てくる中で、さらに深まっていく。彼らのオリジナル曲は他の歌い手にもよく歌われ、人気を博した。
彼らが台頭するさまは、「歌い手=ボカロ曲を歌うユーザー」という認識の矛盾を、ユーザーたちに突き付けた。
歌い手とは、ボカロ曲を歌うだけの存在ではないじゃないか。
そもそもアニソンばかり歌う歌い手もいるだろう。
オリジナル曲を作る歌い手が複数登場したことは、「歌い手=ボカロ曲を歌うユーザー」を明確に否定する事象だった。
◆第2の意味「ボカロを歌うユーザー」の否定
結果として、2014年ごろから歌い手はボカロとセットで語られることが徐々に減っていき、ボカロ文化とは分離した独自のコンテンツとしてみなされるようになっていく。
比例するかのように、歌ってみたに占めるボカロ曲の比率も下がっていった。
まふまふが危惧した歌い手というコンテンツ全体の人気衰退も、ほとんど回避されていた。
動画共有サイトでの歌ってみたの再生回数は、スマートフォンの普及などでネット利用率がさらに拡大した若年層を取り込めたことで、順調に伸び続けた。
メジャーデビューへの道も失われることはなく、歌手になることを夢見て歌い手として活動を始めるユーザーも増え続けた。
まふまふの「ボカロ曲を歌うユーザー」という認識を解体する戦略自体が、どれほど功を奏していたかはわからない。
彼個人の貢献がどれほどかも、測りようがない。
けれども、少なくとも彼の「歌い手という存在を守る」という願いは、たしかに成就していた。
次回→【歌い手史2014〜17】キャラクター化する歌い手たち 第3の意味の成立 ”中の人”がいるVTuber【歌い手史を作るプロジェクト】
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