糸川ゆりえ さん「絵とそのまわりの話」(@粉の日, 2023年4月23・24日)
頂いたお茶が、熱さのやわらぎにつれてその味わいを変えていくように、風や光の訪れ、空気のつめたさ、あたたかさによっても見え方の変わる空間には、オーガンジー (私には、きらきらきれいで触り心地の嬉しい布、でしかなかったけれど、たまたま同じ時にいらしていた、ギャラリストの方が名指していた) のカーテンがひかれていて、それらの出入りをやさしく伝えていた。
そのオーガンジーのカーテンの向こうには、《寝ころび》というタイトルのドローイングがガラス戸に貼られていて、たしかフランス滞在中に手に入れたという紙、そのゆるく波うつ画面には、すらりとした葉のような繊維がところどころに浮かんでいる。その上にぽつりぽつりと落とされた山吹色と葡萄色が押し花みたいで…と思って視線をずらすと、そのふたつの紫の“花弁”は寝ころぶ人の足で、きいろみを帯びた紙色に溶けるようなふくらはぎをわたっていくと、ひろがるワンピースのやわらかなシルエットと、まどろむように目を細めた女性の顔が見えてくる。その絵の手前でゆったりとはためく金糸のベールが陽光のようで、画中の女性がひなたぼっこをしているみたいに見え、少し肌寒い風も、カーテンを通るとやわらいで感じられる。
そのカーテンのさらに手前の棚(波紋のような木目が、深い飴色の中に広がっている)には、ガラスの花瓶が置かれていて、そこに生けられた二本の枝からは、いちご色の小さな花が、うつむきがちに鈴なりに咲いていて、まだやわらかそうなきみどりの葉もふっさりと生やしている。その傍らには、これまたドローイング(《双子を追いかける》)が、そのままかろやかに置かれていて、さっきのものよりも色づいた、チョコレート色の画面には、さんぽをしているようなふたりの女性が描かれ、こげ茶や金茶、薄く吹かれたような金色と、紙色と呼応するような服を着たそのふたりの向こうには、生け垣みたいな緑が透けている。周りには、粉砂糖を掃いたように白がのせられていて、その流れが、いまこの空間を訪れては去っていく風と重なる。
ドローイングだけでなく、キャンバス作品も掛けられていて、《寝ころび》、《双子を追いかける》と、そのまま半時計まわりに空間を眺めていくと、次に出会うのは《花見》。《寝ころび》の女性がうつ伏せで横になっていたのに対し、寝そべる女性はあお向けで、その下のシートには、舞い落ちたピンクと銀の花びらとも、シートの柄ともつかない斑点が広がり、女性のおなかの辺りにおちた銀が、紅赤の服と混じって蘇芳に見える。糸川さん曰く(これまた記憶が正しければ、だけれど)、ご自分で塗ったという下地は絵の具を吸い込みやすいらしい。たしかに、とりわけ格子に入った太い薄桃色は、絵の具を載せる、塗る、というよりは染めているようで、それは、おみやげとして正面の棚に置かれたトートバッグ (斎藤思帆さんによるシルクスクリーン) の、染められた紫、緑…、それらの濃淡とも通ずる気がする (そしてところどころに走る白いすじは、《双子を追いかける》の白とも重なる)。
《花見》以外にも、正面奥に掛けられた《スーパーナチュラル》、途中でテーブルにお店を広げて見せてくれたふたつの作品[《花見》以外の3点は、個展「夜更かしと幻影」(@児玉画廊,2023年2月25日 〜 4月1日)で展示されたらしいけれど、残念ながら拝見していない]といったキャンバス作品は、児玉画廊やオペラシティで拝見した時はやわらかな印象だったものの、今回のようなより日常に寄った空間ではむしろ”強さ”が際立って、それは、キャンバスの厚みや、ピンと木枠に張られたその緊張感が醸し出す、物としての強さのようで、風にたゆたうドローイング(実際、カーテンの張られていない方のガラス戸に留められた《折本のためのドローイング》は、吹かれてはためいていた)の佇まいと対照的。場が変わることで、見え方も変わることは当たり前のようだけれど、なんだかセンサーが調律されて、より微弱な”シグナル”(もちろん作品としての優劣ではなく)にも一時的ながら反応できるようになったみたいで、それは、風を可視化するカーテンとも通ずるかもしれない。
そんなキャンバスとドローイングを橋渡しするかのように《軽く深呼吸する》が窓辺に腰かけていて、下地の塗られていない生成りの布は、外の光をうっすら通していて、木枠も画面にその影を落としている。草むらをかき分けた先に広がる水辺と舟…と思しき光景は木炭をのせるように描かれ、ガラス戸越しに裏から覗いてみても、輪郭が仄かに透けて見えて、風通しのよい佇まいが、この空間とよく合っている。
…といった記憶と共に、物としても、折本《アウトプットの寄り道》を一冊持ち帰った。私のは、『月食』というタイトルの付された、きらきらとした銀色のもので、濃いピンク色のけば立った紐をほどいて開いてみると、そこには幸福な記憶(たとえば、”さとうのあまいにおい”)をたどるようなドローイングが広がり、その裏にはひとこと「だいきち」と書かれていた。