泉太郎さん「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」@東京オペラシティアートギャラリー
「コドクエクスペリメント」(@Take Ninagawa)で見た “セイタカアワダチソウ” は、円盤から蟹股気味に生やした4本足で自立していた。足元には、にぶく輝く耳付きの壺を抱いていて、その壺からは、同じような色艶をした葉と茎が伸び、先端を円盤の中に潜り込ませていた。円盤の外にはたくさんの蜂が群がっている一方で、中のモニターは “仲間” を映し出し続けていて、その姿は、この円盤を半分に割って巨大化させたような "ドーム" の中で、VRゴーグルを着けた鑑賞者の姿とも重なる。
靴を脱ぎ、“寝台” に据えられた土器に頭をはめ込むと、土器同士の擦れる音を響かせつつ蓋が閉められる。さらに、アイマスクほどの土器も載せられたらしいことが、ゴーグル越しの、ざらざらとした白黒の視界から窺い知れる。映像が始まると、広がる石室めいた空間に、スクリーンセーバーの如く小さなマスク (仮面舞踏会で着けそうな、目元だけを覆うタイプ) がいくつも浮遊している。仰向けの視界の斜め右からは光が差し込んでいて、どうやら “外” は晴れらしい。ゴーグルの重みと、丸く欠けた視界、固定され動かせない首…という映像外の要素が、“私” も同じような仮面を着けられ埋葬されていることを告げるよう。映像が終わり寝台から足を下ろすと、パイル地のカーペット、その滑りやすい表面越しに小さな段差の角が感じられて、その感触が、壁に掛かった番号札を取った時、裏側に潜むボタンを知らず触った "気持ちわるさ" と通ずるよう。
後日、EASTEAST (@科学技術館) の会場で、設営を担当された佐塚真啓さんとお会いした時、ドームの下には1200個の小さなレンガで作った床があることを教えてもらったけれど、私はそれを見ていない。ただ、小さなレンガたち (ドーム表面に、半ば崩れ落ちるかたちで載せられ、一部は零れているあのレンガだろうか) が潜んでいたことをイメージすることしかできない。
泉さんの「イメージするレクチャー」(@ YAU OPEN STUDIO) を聞きに行くと、ご自身のボタン恐怖症、ボタンの穴を針でつついたら、何かよからぬものが出てくるのではないかというイメージについて話されていた。そのイメージは、否応なくボタンの制服を着なければならない学生時代には遠ざかっていった (曰く、現実に近づいたわけではなく、あくまでイメージのボタンから遠ざかっただけ) らしいけれど、その後ぶり返し、さらにはスキマ (今、腰を下ろしているカーペットのパイル、窓越しに見えるビルのレンガ…) も気になるとのこと。電車の窓越しに流れるベランダと、そこに置かれた室外機とのスキマにも目が飛び込んでいって、その時の、目だけの存在となって、身体が置き去りにされてしまうような心地に、どこか暴力的なところを感じるそう。
私にはまさしくイメージするしか手立てがないけれど、VRを終え "待合室" に帰った時に、さっきまで5基ほどだったテントが20基を超えていて、こちらを向いているかもしれない穴から、覗いているかもしれない視線を、引き寄せられるように見つけてしまうことへの怖れと、強いて言えば近しいかも知れない。そうして足元ばかり見ていると自分のテントがわからなくなって、他人のテントを暴くのも怖いから、"マント" もなく最初の展示室に戻った (その後、テントは撤去されていた)。
"マント" なしで戻ってもよいことは、初めに教えてもらっていた。そのスタッフさんは親切で、「ここ (最初の展示室) には後で戻って来られるので、先にVRの予約をしておいた方がよいですよ」ということを、「鏡なしでも撮影可ですよ」に付け加えて教えてくれた。展示の初めに、ひそひそ声の女性からスマホ越しに教わった、この展示室で生き残るための"助言" とは真っ向から対立していて、ルールが与えられつつも、それらは適宜読み替えられていくこと、鑑賞者の側でもそれぞれに解釈の色合いが違っていることは、"マント" の着こなしに正解・不正解はない (ただしコツはある) こととも通ずるよう。
“セイタカアワダチソウ” が倒され、壺が割れたことで中身 (やはり壺と同じような色合いの粒々) も暴かれたように、倒れ毀れた過去作は、倒れ毀れたからこそ秘していた “内臓” を曝しているはずだけれど、私にそれはわからない。「ON」と書かれた壁の消し跡から、幾度とない繰り返しがイメージできて、その先に、見たことのない「OFF」を垣間見る (心地のする) ような営みは、「毎晩、紙があります」(@SUNDAY)にて、灼けたファイルの裂け目越しにドローイングをイメージすることとも通ずる。"ドーム" で横たわる鑑賞者は眼前のイメージを見上げてばかりで、足下に埋もれたレンガには気がつかないけれど、空間のあちらこちらで、細かな傷に入り込み増殖する菌糸の如く、か得体のしれないものが潜み育まれていることだけは何となく察知されて、スキマはそうしたものの孵卵器なのかも知れない。そして、この空間全体が、世界に対するスキマだと思う。