#大久保あり さん「ワンダーフォーゲルクラブに入るための良い答え もしくは、四千円を手に入れるためのまあまあな答え」@Second 2.
《ワンダーフォーゲルクラブに入るための良い答え もしくは、四千円を手に入れるためのまあまあな答え》という不思議な響きのタイトルだけなら、それこそ数年前から聞き知っていたものの、作品を実際に拝見したのは、それからしばらく経った「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」(@東京都現代美術館, 2022年7月16日~10月16日) のインスタレーション内でのことだった。しかし、大久保さんの今までの作品を概観しつつ、そこに新たな作品の萌芽を感じつつ、そしてこの空間自体もひとつの新たな作品である…というインスタレーション (今更ながら、《No Title Yet》というタイトルが、大久保さんのポートフォリオサイトと同じことに気がついた) での出会いはますます謎を深めるばかりで、背表紙のタイトルに惹かれ続けていた本にようやく手をのばし、やっとその表紙を見るに至った…ぐらいのもので、その先の本文を読むまでには、そこからまた数か月を要した。
《ワンダーフォーゲルクラブ》という “本” を開くことができたのはこの3月に入ってからで、#田中啓一郎 さんの個展「'My answers' / ワンダーフォーゲルクラブに入るための良い答え、 もしくは、四千円を手に入れるためのまあまあな答え [田中啓一郎の応答]」(@higure 17-15 cas, 2023年2月25日~3月12日) でのことだった。そこでは、細長いキャンバス作品や、それらを並べてひとつに仕立てたような大作が点在していて、キャンバス上のイメージではなくキャンバスそのものを作品として扱う、田中さんらしい手つきを味わえる個展として展開しつつも、壁にはこれまでの《ワンダーフォーゲルクラブ》4篇が掲示されていて、田中さんバージョンも、蛇腹の冊子として会場で配布されていた。
それら5篇は、導入と (「わたし」の番を予感させる) “結末” を一にしながらも、中盤ではパラレルワールドの如く異なる人物との邂逅が描かれていて、今回は、田中さんとの出会いが描かれていた。
出会いの舞台は、どうやら伊勢佐木町センタービルにあったアズマテイプロジェクト (現在は藤棚町に移転していて、移設された壁と扉が、その名残を留めている)、そこで開かれた当地最後の展覧会「# 33 Heading to FUJIDANA | 藤棚へ」(2022年10月1, 2, 7, 8, 9, 10日) らしい。私も展示自体は伺っていたので、それこそ #志田塗装 さんが喜んで収集していきそうなほど年季が複雑な色合いを成した壁、その一面に掛けられた作品群と、向かい合う壁に立てかけられた、ひとつひとつの作品のための箱は見ていて、文章からそれらが思い出されたものの、移転準備として田中さんが箱に作品を収めていくイベントは目にしてはおらず、この文章ではじめて知った (この文章を書く過程で、記録写真もようやく拝見した)。
そのイベント中、作中の「わたし」が、“田中さん” もワンダーフォーゲルクラブに応募することを知って…と続く物語はいわば前日譚で、その “応答” として制作された作品に囲まれたギャラリー内で、虚実のあいまいな話が明かされる構造は、「藤棚へ」のひとつ前に開催された、大久保さんと志田塗装さんとの二人展「#32 And then, return to beginning | そして、初めに戻る」(2022年9月17日~25日) にて、先述の「MOTアニュアル2022」の “前日譚” が、同様にインスタレーションとして語られたこととも通じて、展示の前日譚として小説があり、そのまた前日譚として、ひとつ前の展示があって…と、《ワンダーフォーゲルクラブ》自体が、後ろ向きに前へ進む式に、 “前日譚” の連鎖になっていたのかも知れない (作中の「わたし」にとっては、それぞれの出会いが別の時間軸の話で、前日譚ではありえないだろうけれど)。
今回の「ワンダーフォーゲル~」は、いわばその “連鎖” に終止符を打つひとつの結末で、例えば、ところどころを金、銀、錆色に染めた刺々しい植物には、鳥の羽毛が幾枚も刺し抜かれていて、その中で守られるように、あるいは檻に閉じ込められるように、右前足を欠いた木彫りの熊 (《東の熊、青い森の幽霊》と関係あるのだろうか?) が鎮座している。
他の作品でも、割れたうつわから壁面へとカリン? が這っていたり、ガマ? が農具の先みたいな鉄器で活けられていたりして、枯れて色褪せた植物 (とんと疎くて、名前は全然わからない) と、壊れたり、何かの部品めいた品々を組み合わせた作品は、会場であるSecond 2. が、現代美術と古物の両方を扱うこととも呼応するよう。
壁には写真が、モノクロでサイズの大きなものはポスターとして貼られ、小ぶりでカラーのものはマウントされ掛けられているものの、その色合いはミルキーで、全体として、植物 (自立した作品だけでなく、壁にも束がいくつも吊られていた) の褪せた雰囲気と調和している。写真が、会場に配置された植物たちと同じものなのかはわからないけれど、生きている、あるいは摘みたてであることはモノクロながら感じられて、今この場にあるドライフラワーと写真との関係は、実際の展示と、小説内世界の関係のようでもある。
奥のカウンターには、これまでの《ワンダーフォーゲルクラブ》が並んでおり、出入口手前の壁には「あとがき」が、編集された痕跡と、これからなお編集される予感を漂わせつつ (赤の入れられた草稿が束になっていて、「執筆中」と文末に書かれている) 掲示されていて、その何度も語り直される様は、《ワンダーフォーゲル》5篇で共通の導入にも、実は改行や語句の変更といった手が加えられていること (1篇目と2篇目で割と大きな変更があって、その後はほぼ変わりないよう) とも通じていて、その変化と収束は、語る度に物語として洗練されていく夢のよう (と言うより、この《ワンダーフォーゲル》自体、そもそも2009年の初出以前に大久保さんの見た夢が基となっているらしい)。
大久保さんご本人と、文中に現れる「わたし」、そして、あとがきで括弧付きで記載された『「わたし」』は、素直に考えれば同一人物だろうけれど、どこかそれを疑わせる、というか、本当に? とつっこんで考えることを求めるような声も感じられて、そう考えてみると、私自身も、数年前の私と全くの同一人物かと言ったら、必ずしもそうではない (積読本を手に取って、何故これを読みたかったんだ? と思うこともあれば、まさに読みたい本が棚にささっていて、驚くこともある)。
作中の「わたし」も、「マキちゃん」、「ケイくん」、「ワンくん」という登場人物と分かれた (ここまでが共通の導入部分) その次の段落からは、小説世界では数日程度らしいものの、現実世界では数年が経っていて (田中さんの回に至っては 13年近く)、2009年初出時の「わたし」に挟まれるように、改定されるたびに差し替えられ新しくなる「わたし」がいて、その “乖離” が、《ワンダーフォーゲル》シリーズを読む面白さなのかもしれない。
そしてもうひとつの面白さは、この展示期間、展示空間のことは小説として残らないことだと思う。これまでの《ワンダーフォーゲル》シリーズを読んでいると、改定部分が、その時の展示風景のように思わず錯覚してしまうけれど、小説と展示の両方を読み、見比べることのできた田中さんの回でようやく、その展示空間や作品のことは一切描写されていないことが見て取れた(小説が "前日譚" だとしたら当たり前だけれど)。言葉に溢れつつも、要の、中心の部分がむしろ言葉になっていないことは、このsecond 2. の空間でも、手前と奥に「あとがき」とこれまでが付されているものの、その間の空間は植物と古物に溢れていることとも通じて、さらに、その ”余白” は、作品に使われている木彫りの熊が前脚を一本欠いていたり、うつわが割れていたり、あるいはセミの抜け殻がくっついていたりと、どこか壊れていたり、破れていたりすることとも繋がるよう。
こうして《ワンダーフォーゲルクラブ》を「あとがき」まで読み終えたものの、肝心の問題が何なのかもまだあいまいで、むしろ、答えだと思って眺めていた作品群こそ、問題だったのかも知れない。拝見してからずいぶん経ってしまったけれど、私はこの感想を答えとしたい (せめて四千円が貰えるといいけれど…)。
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