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ふと思い出す。

22時、20代の僕はネオン煌めく繁華街で車椅子を押していた。
しかも「リクライニング型」と呼ばれる
いわゆる「寝たきり」の方のための車椅子だ。

その「リクライニング型」の車椅子に乗っている「寝たきり」の彼は若くして脳梗塞を患い左半身が動かない。介護保険制度の認定において要介護度は最も重度の5である。仕事に明け暮れ、結婚もせず身寄りは兄弟しかいない、60代後半の男性だ。

そんな彼の住まいは「特別養護老人ホーム」であり
僕はそのホームで働く従業員、いわゆる「介護職」だ。

彼は口も悪く、言葉も悪く、主張も激しく
どうしても他の従業員に嫌われてしまう、でも本当は臆病で優しいと言った、とても損な性格だが、僕とはなぜかウマがあった。

ひょんなことから僕はそんな彼の担当となり
彼の日常のお世話は他の従業員みんなで行うが
趣味嗜好等に関しては担当である僕が行う必要があった。

彼のためにHな週刊誌やスポーツ新聞を買いに行ったり
退屈凌ぎに自分の持っていたテレビゲームを持って行き一緒に対戦したりと
まあ割りに自由に暮らせるお手伝いもさせてもらっていた。でもそれは、「施設に入所しているにしては」だ。

その当時、介護保険制度が始まってまだ数年。
まだまだ制度開始以前の「古き管理的慣習」の多い「老人ホーム」において

僕の勤め先はまだ柔軟であり「変化」していこうという兆しがあった。

そもそも「古き管理的慣習」とは

入所している方を「社会的弱者」と捉えて医療機関での入院に準じて「集団的に管理していく」といった価値観が当然だと言う慣習だ。

しかも入院ではないため「完治」はなく特に大きな目的もない毎日を「集団的に管理される生活」が死ぬまで、または医療のお世話になるまで続く訳だ。

そしてその古き慣習からの変化のタイミングとして

「医療」と「介護」の住み分けと、持続可能で効率的な社会保障制度の構築、「措置」から「契約」へという流れの中で

介護保険制度は「走りながら考えていく」前提で2000年から施行されたのだ。


さて、話を戻そう。

彼は地方の商社で事務方として長く勤め、母親の介護をしながら一生懸命働く中、身体を壊して、今に至る。


特別養護老人ホームの中では毎日毎日、同じ部屋でテレビとお友達。部屋から出ることは極端に嫌い、人も選んでしまう。お世辞にも周囲から人気のある人とは言い難い。


極め付けに彼は「嚥下に障害」がある。飲み食いは危険だと前の医師からは許されず、胃から直接栄養を摂らざるおえない、所謂「経管栄養」であった。


そんな彼に私は尋ねた。「何かしたいことは無いですか」と。


最初のうちは「焼酎の水割りが飲みたい」と。

医師から今まで「危ないから」と禁止されていた「嚥下」に関すること、だ。


疑問に思っていた。

こんなにもおしゃべりが上手な彼が本当に飲み食い出来ないほど嚥下機能が低下しているのか、と。


理解ある看護師さんに相談。立ち会いの元に飲水、結果少量なら安全に飲めることが確認出来た。

そして現主治医である医師からも許可を得て、毎夕に焼酎の水割りが彼の楽しみの一つとなった。

私らはこれまでの情報から、勝手に「出来ない」「飲めない」と決めつけていた、のかもしれない。


そして次のステップ。「つまみが欲しい」、ま、そうでしょうね。

これまた医師と相談、ミキサーから始まり、結果「お刺身」が食べるようになる。そして毎夕の焼酎の水割りに加えて、おつまみの刺身が彼の楽しみの一つとなった。


そんな生活が続く中、少しずつ他の職員さんとも仲良くなり始めた頃彼との何気ない会話の中で

「馴染みの寿司屋がある」との話となる。

「仕事帰りに必ず立ち寄ってたお店なんだ」と。


あーあそこだな、って地域の飲み屋街のお寿司屋、本人に許可を頂いてお店に連絡。電話に出たのは気の良い大将。

「彼は常連さんだったよー、今は老人ホーム?車椅子なんだってね」

すると大将から「来てもらえるとなー、会いたいなー」と温かいお言葉を戴いた。


そうであるならばと看護師さんと主治医に相談。何とか看護師さん同伴での外出へこぎつけられることになり本人に報告。


「またまたー」的な感じも「行ってきなさい」と上司も応援してくださり、ここからは比較的スムーズに実現に至った。


さて陽が落ちてから19時発の外出支援。飲み屋街のパーキングにリフト車を停めて

ネオン街をリクライニング型車椅子を押して歩く。周囲から見れば違和感でしか無いが、この時の本人の笑顔は今でも忘れられない。


寿司屋のご主人もお店も前まで迎えに出てくださり、この日のために丁寧な準備もしてくださっていた。

狭い店内も「貸切」にしてあり、リクライニング車椅子が入るスペースも用意してある。


まー話は尽きない。寿司ネタの好みも言わなくても大将には分かるみたい。

事前に本人の嚥下状況について大将にも確認済み、比較的本人の食べ易いもの、かつ好みのものを事前に用意してくださっていた。


そして、これまでのプロセスは全てここに繋がっていたんだと改めて実感した。

思えばこちらの描いていたケアプランの長期目標は見事に達成された。


最終、縁もたけなわだったが、22時に声をかけて施設に帰宅。

「帰りたくない、もう少しいたい!!」と駄々をこねる姿もあったが「また行きましょう」と約束。それですんなりと応じてもらった。


それから結局3回ほど。彼と一緒にその寿司屋に行くことになったが、彼は体調を崩し医療施設への住み替えを余儀なくされてしまった。


この住み替えは本人は「無念」と話され、その後は以前のような「古き管理的慣習」の生活に逆戻りしてしまった。

彼の中では私たちと過ごした時間は「特別だった」、そのように話してくれた。

上司からは私たちには時間外手当をつけてもらった。当直のおじさんも、夜勤さんも私たちの帰りを快く、準備をして受け入れてくれた。

そして何より、「何とか力になりたいよね」「何とか叶えてあげたいよね」って空気が、風土がそこにはあった。

そうなんだ。

ヘイセイのカイゴには、施設に入所している方に対して「何とか力になりたいよね」「何とか叶えてあげたいよね」って空気が、風土がそこにはあった。

では今の「令和の介護」、施設に入所している方に対して、このようは空気や風土、そして余裕が果たしてあるのだろうか。

あれから時代は令和に変わり、有料老人ホームがこんなにも増えた。その入所は家族にとっても良いかもしれない、でも本人にとってはどうなんだろうか。

「口だけじゃなく本音の世界で、入所したくて入所した人がどれ位いるだろうか」

また「入所してしまった」方に対し「その方にとっての当たり前の暮らし」を口だけでなく実行しているような施設がどれ位あるのだろうか。

人口減少、生産年齢人口減少社会、コロナ禍など様々な悪条件もあるかもしれない。

しかしその中においても、ただ単純に「何とか力になりたいよね」「何とか叶えてあげたいよね」って思い、専門家として誇りを持って働いている人が、果たしてどれ位いるのだろうか。またそのような人材を育成すべき、使命感のある法人がどれ位あるのだろうか。


「ヘイセイのカイゴ」そこにあるのは「希望の介護」「笑顔の介護」

私たちが伝えていくべきは、そのリアルな現場での出来事と、本当の専門家としての私たち先人の役割、ではないだろうか。




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