8月13日 言葉とあと対峙
朝から頭の中で様々の思考が同時並行的にばーっと走っており大混線の様相。
この間のインタビュー、まぁまぁよく話せたように思っていたけれど、でも本当は実際はなにもひとつも大切なことを言えていなかったのではないかという気がしてくる今朝。だけどなにを話したかなんてすぐに忘れてしまうのだし、だから言った言わない聞いた聞いてない合戦のような下らないことをひとは大人になってもするんである。そもそも本当の本当の一番大切なことを言葉にできることなんてあるんだろうか。ないとは言い切れないが、ほとんどないだろう、あったとしたら「この作品が作れたからもう死んでもいい」と思えるようなアルバムの完成に匹敵するようなことだろう。感情や思考を言葉にできるなんて考えは思い上がりなのだわ。そう思えば少し気持ちが楽。わたしたちは言葉を信じ過ぎているし言葉に頼り過ぎているところがあるよね
言葉のことでいうと、この二週間ほど、言葉の通じなさというものに心身をめっためたにやられているのであるが、だけどそれは別に言葉自体や言葉を発しているわたし自身に問題があるのではなく(うっかりそう思ってしまいそうになるほどではあったけど)相手に「相手の話を聴こう」という姿勢あるいは誠意というものがまったく微塵も欠けらもないからなのだった。ミソジニーの塊。凝り固まったまままったくアップデートされていないバブルの残り香漂う価値観。遅かれ早かれ確実に淘汰されていくと思うけれど、でもその頃にはまた新しい「古い価値観」が生まれているのかもしれない、その意味ではただ配置と内容が多少変わるだけできっとずっと同じなのかもしれない。苦しいな。わたしにできるのは自分がそうならないように最新の注意を払って生きていくことと、周囲にも呼びかけわたしにも呼びかけてねと頼んでおくつまり呼びかけ合うこと、そしてそれらの存在と出会したとし、きちんと対峙する、とか、だろうか。
だけどこの対峙というのも本当に大業なことなのであり、わたしはレイシズムにもセクシズムにも今朝話題沸騰の優生思想やネオリベにも断固反対しており、まじでふざけんなこのやろうと心から思っているしTwitterなんかにはそのようなことを書くことも度々あるけれど、いざその存在を生まれて初めて自分の人生の中に直接的な関わりと共に認めたとき、まったくどうしていいかわからなかった。
まず、混乱した。ひどく混乱した。そういう存在が実際に存在しているという事実をしかもいま目の前にいてわたしの人生に何らかの関わりを持って存在しているというその事実を受け入れることだけでも相当の労力を要した。不思議なことに、わたしはその存在を自分の中で必死に肯定しようとしていた。なぜかその存在を悪者扱いしないようにとてもとても丁寧に扱った。なぜだろう。悪者扱いすることで自分が悪者になるような気がしたからか。そうかもしれない。そうして具合が悪くなった。嫌悪と憎悪と怒りと悲しみで比喩でなく胃が痛くなり吐き気がした。腕がびりびりと痺れ、その気持ち悪さがずっと続いた。それがこの二週間だった。キツかった。闘うって本当楽じゃない。別にこんなことにわざわざ自分のエネルギーや感情や時間その他を割く必要は本当ならなく、さっさと立ち去り断ち切ってしまえば済む話なのだけど、でもこれはやっぱり今後の自分自身とそれからいつかのどこかの誰かのために必要なことだと思っている。だから対峙、しなくてはいけない。
大事なものを間違えたくない。何度も何度も何度も繰り返し思っていること。幸い言葉を交わし合えるひとたちというのがちゃんといてくれる。だから大丈夫。
年内の予定がコロナその他によって瞬く間に流れ去った。お前はそろそろいい加減自分のことをやりなさいと神様に言われているのかもしれない。とかいう都合の良い解釈。でもそれもいいな。先延ばし先延ばしにしてきた想いがたくさん溜まっている。
余裕がないとなかなかひとにも優しくあれないのであるが、なるべく優しくありたいわ、ひとにも自分にも。でも優しさって、とか書きはじめるとまた倍の長さになるからやめる。だけどこれをやめずに書くこともそのうちやってみたい、とか、そうしてこうして宿題は溜まっていくのだわ。今日は一日家でミックス。ちょっと雨で涼しくて静かでちょうどいいわ。母にもらった大きな桃を剥いて丸ごと一個食べた。とても甘かった。
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