5月17日 やまみさんの歌
可能性をフラットに捉えるということについて考える。こうなったらいいな、こうなって欲しい、こうなったらどうしよう、とか、期待したり執着したり怖がったりしない、どちらに転んでもそれを平坦な気持ちで眺めて、へ〜なるほどね、と受け止める。そういうことができるようになったらずいぶんと人生は楽なのではないか。
選ばなかったものを選ばなかったことをいつか後悔するだろうかと考える。でもそれだって言ってしまえば可能性の話で、自分ではコントロールの出来ないことのあまりの多さを思えば、そんなのはもう手を離して好きなところに好きなだけ行かせるしかないんである。
風が強い。強すぎる。
そういうことで言うとだけど、こうなったらいいなぁと思っていた方にはどうやら転ばなそうな雰囲気の事柄がひとつ。まぁだけど仕方ないね、自分に正直でいること、自分自身であること、相手がどうとかはその次、いまは。
本をまとめて何冊か買った。一気に読み始めてしまい、これまで読んでいたものもありわちゃわちゃの様相で、とりあえず3冊くらいに絞る。やっぱりある程度対象に集中する必要があるなと思う。家にいるときは大抵なにかしらの音楽をかけているけれど、たぶんいま音楽に対して敏感になっているから音が鳴っていると本が読めなくなっていて、本を開いている間は音楽を止めるようにしているこの数日。
今朝は久しぶりにやまみさんの歌が聴きたくなって、CDをかけた。やまみさんのCDの出番は他のCDに比べてとても多いので(CDもめっきり聴かなくなってしまった)棚の中のわかりやすいところに置いている。やまみさんの歌をまた聴ける日がくるといいなぁと思うけれど、もしこなかったとしてもわたしにはやまみさんが残してくれたこの作品たちがあり、それはいつまでも消えることなく様々の感情や記憶とともにわたしのもとにあり続ける、それだけで十分じゃないか、それがすべてじゃないか、ということを思った。そしてその次の瞬間、まったく同じことをわたしはいつかのエッセイに書いていたじゃないか、ということに気がついた。巡り巡っている。想いも感情も。
生活/ホタルのアナログに付けたエッセイ、自分用に一冊どこかに残しているはずだから探して読んでみるのもいいかもしれないと思うけれど、きっとそれはしないだろうなという気がする。過去の自分の残したものに向き合うのはわたしにとってなんとなく怖いというか少し勇気や気力の要ることだ。そういう意味で、自分の作品をときどきふと自然に聴けるというのはわたしにとってはなかなか特別なことだな。
さっきの可能性の話だけれど、こうなって欲しい、絶対こうしたい、という強い想いがある場合はだけどそれについては500%の力でもってそれを取りに行くようなことも必要というかあってもいいのだろうな、というか、勝手にそうするんだろうと思う。つまり現状そうしていないということは、それはやっぱりそうでもないということで、だったら潔くさっさと手を離して他のことに自分の労力時間その他を注いだ方が良さそう
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