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【番外編】更新がとまっている間、ダッカで入院してました

 皆さまこんにちは。スタバでバイト大学生がなぜNGOに?の連続企画ですが、第5回を迎えたところで更新がとまってしまっていました。そのしばらくの間、どこで何をしていたかと言いますと、タイトル通りダッカで入院しておりました。

 高熱、関節痛、嘔吐下痢がなかなか治らず、結論、デング熱と診断されました(今年はダッカでものすごく流行っています。)

 約2週間近い入院を経てやっとこさ元気になりましたので、今回は番外編としてその期間の様子を記録に残しておこうと思います。

まさかデング熱になるとはつゆ知らず、陽気に犬の写真をパチリ。お気に入りの一枚。

デング熱、大流行


 バングラデシュの首都ダッカでは、今年は特にデング熱が猛威を振るっています。厚生労働省のページによれば、以下のように書かれています。

デング熱は1960年代にバングラデシュ(当時は東パキスタン)で初めて記録され、「ダッカ熱」として知られていました。ネッタイシマカという媒介蚊の定着と都市での循環によって、バングラデシュではデング熱が風土病のようになったのです。

https://www.forth.go.jp/topics/20221201_00004.html

 ダッカ熱と呼ばれていたことは知りませんでしたが、病名にされるくらい南アジア地域では毎年のように流行しています。そして今年のバングラデシュでは特に猛威を振るっています。

 例年に増して深刻であることは聞いてはいましたが、それでも以前住んでいた時も流行っていましたし、周りで感染していた方もいたので、そこまで正直おそれることなく渡航していました。(その油断はだいぶ反省しました)

 そして、渡航して約1週間が過ぎた頃、体調不良が突如やってきました。なんとなくこのまま無理すると体調を壊しそうだなと思った翌日には発熱し、やってしまったなあという気分でした。

 しかし、僕はもともと風邪をひきやすいうえに発熱するとだいたい39度台になるのが通常だったため、まさかデング熱だとは思いませんでした。疲れが溜まったいつもの風邪だろうと勝手に判断し、数日寝れば治るんじゃないかと思って休むことにしました。

 実際、解熱剤を使って3日ほどで一度熱が下がりました。そのため再び活動を再開していました。そこでまた油断したことが災いしました。翌日また発熱し、今度は嘔吐下痢が加わって飲食ができない状態になりました。ここまできて、さすがにちょっとおかしいなと自覚し、病院に行こうという気持ちになりました。

そのまま入院、デングのこわさを知る

 状態があまり良くなかったことから、救急車を手配してもらい病院に向かいました。その日も熱が高くうなされていたのですが、救急車の車内のエアコンがガンガン効いてきて、ちょうどおでこのあたりに風が当たるので、なんとなく下がってきた感じがしました。意外と物理的に冷やすと熱って下がるんだなあとのんきなことを考えながら病院に向かいました。

 エアコンのおかげで少し体は楽になり、ややスッキリした面持ちで病院に入ったのですが、熱を測ってみたら38.7度ありました。だいぶ楽になった状態でこの熱ということは、今までうなされてた時は一体どれくらいあったんだろうかとこわくなりました。その後、すぐに点滴がはじまりました。また、血圧の低下が心配されたため、常時心拍数と血圧が測られました。


最初の数日間は発熱と解熱を繰り返し、ずっと点滴してもらっていました。

 同じような状態が2.3日続き、だんだん熱が下がるようになってきました。デング熱は上がったり下がったりを繰り返すため、その後も急に熱が上がる時もありましたが、少しずつ回復に向かっていることを実感しました。

 ただ、デング熱の本当の怖さを知るのはその後でした...

デング熱の本当の怖さは解熱後にやってくる


 これまで知人でデング熱になった方もいたため、なんとなくそれを見ていて「ひどい風邪」ぐらいに思ってしまっていたのですが、実際は大きく異なりました。

 やっと熱が下がってきた頃、ここからがデング熱のこわい時期だということを医師に教えてもらいました。デング熱は解熱後あたりから血小板や白血球の数値が下がるという症状がありました。急激に減少した場合は輸血も視野に入れる必要があるとのことでした。また、ひどい場合には胸水や肺に水がたまるのもこの時期からだそうです。


僕は下痢がひどく、1週間以上ずっと点滴をしてもらいました

 ちなみに今回、私ははじめての感染だったので重症化リスクは低かったのですが、2回目以降は特に注意が必要です。デング熱には4つの型があり、そのうちのいずれかに感染すると、その型に対しては終生免疫がつくと言われています。しかし、その後に他の型に感染した場合、重症化デング熱=いわゆるデング出血熱になるリスクが上がります。(アナフィラキシーとも異なるようで、なぜ2回目以降に重症化リスクが高まるのかという要因に関しては諸説あるようです。)重症化デング熱の場合もデング熱同様に熱が下がりかけた頃からが危険な時期になるようです。興奮や不安、また血漿漏出と出血が起こると言われています。

 私の場合は血小板、白血球の数が解熱のタイミングと共に下がっていきました。また発疹もこの頃から出始め、体は楽になっていく一方で、見えない変化が起きていることに不安を覚えました。まだ熱なら体で感じられるし、できることもありそうなのですが、血液の状態に関しては自覚症状もなく、一体どうなっていくのだろうというこわさでした。

 デング熱はただ熱が出て終わりではない、ということの実態を肌で実感しました。また、今後も何度も渡航するであろう中で、2回目以降の感染で重症化した場合の恐怖がとてもリアルに迫ってきて、リーチがかかってしまったような漠然とした不安も同時に感じています。

2週間近く入院の中で、いろんな反省をした


 熱は下がり、体は楽になったものの、私の場合は血液の状態がなかなか良くなりませんでした。そのため、入院生活も想像よりも長いものとなりました。
 でもその間、たくさんお世話をしていただいた山形ダッカ友好総合病院のレイ子さんや、適切な状態まで辛抱強く医療を続けてくたさった医師の方々、現地の先輩、心配の連絡をくれる方々など、たくさんの方に支えられているなということも実感しました。

 こうして支えを感じながら毎日を過ごしていると、だんだんと自分自身のあり方を反省するようになってきました。それはデング熱だけに限らず、今までのフィールドでの過ごし方自体を改めて考え直す機会になりました。

 これまで当たり前のように国境を越えフィールドで活動していましたが、そんな選択ができるのは、これまで健康に生かしてもらっていたからだという当たり前のことに気づきました。その健康は、実際は非常に不安定で不確実なバランスの中でたまたま享受していたものであり(日本で生活しているとつい忘れて、自分が健康的である幸運な存在だとか、大体のことは治るから心配ないと思ってしまっていた)、本当にちょっとしたきっかけで簡単に手からこぼれ落ちていくものなんだと感じました。また輸血の可能性や自覚症状がない中での体の状態の変化、また2回目の重症化リスクを身に迫ったものとして感じる経験の中で、死って普段はとても遠いものだと思っていたけれど、本当はすぐ近くに落とし穴がいっぱいあるものなのだ、という感覚が非常に強く残りました。

 私は健康であり、フィールドで好きに動ける体を持っていると思い込んでいたことは傲慢であり、生まれてから適切な環境で育ててもらい、多くの他者の助けの中でやっと実現していたということに気付けていなかったなと思いました。そうやって支えてきてくれた方たちのことを考えると、今までの振る舞い方は周りを安心させられるものではなく、またそうした思いに対して責任も感じていなかったと思い、一人の人間としても、今後も渡航を繰り返して活動を続ける身としても行動を変えるべきだなと反省しました。


元気な時に撮った街の写真。ここに来られることを当たり前だと思っていたなと自覚。

 また違う視点では、これまで現地の人と同じ方法で、現地に混じっていろんなことができるようになりたいと思って行動してきた自分がいます。それも必要な時期はあると思いますし、僕は学生の頃にそれを思い切り体験できたことは非常な貴重な時間でした。それにより気づけたこともたくさんありました。

 ただ、今はNGOで活動する人間として、目的があり、やりたいことがあって来ています。そうした中で、自分は慣れと近視眼的な損得勘定で行動選択をしていたことを思いました。目的を果たすために本当に最良の選択なのか、きちんと活動するために必要なことなのか、この選択に責任が取れるのかということを考えなければならないなと反省しました。これまで何度も来ているからと思考を停止していた自分に気づきました。立場も変わり、目的も変わる中で、自分自身のスタイルもまた変わらなければならないと気づく機会になりました。

最後に


 このデング熱の期間、本当にたくさんの方にお世話になりました。ありきたりだけれど、生かされていることを実感しました。
 言葉で述べるだけでは伝わりきらない感じはありますが、たくさんの方に助けてもらい、心配をかけました。この時の気持ちと自分を律することを忘れずに、記録に残しておこうと思います。ありがとうございました。

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