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初めましてだなんて思えないね、そう笑いかけられた気がした

こちらは、アドベントカレンダー夏2023「星座のアドベント〜人生の点と線〜」のテーマで執筆したものです。
全25日間のうち、本日は3日目。
みなさんのnoteは、順次以下のマガジンに追加されます。



注文の多いわたしの人生


小学生の頃、既に東大に合格していた兄と比べられ、「のんちゃんも "良い"大学に行くんでしょう?」と言われていた。

「"良い"大学」って、なんだ?

満点じゃないと文句を言われるテスト。そのくせ中学受験させてもらえるわけでもなく、学年60人しかいない小さな公立中学へ持ち上がり。

「俺のときは塾なんか行かせてくれなかったじゃん!」と眦を吊り上げて父に詰め寄る兄を横目に、毎晩22時過ぎまで塾に籠った。

親戚に会っても、近所のおばちゃんに会っても、大学受験と就活の話ばかり。そんなこと、聞かれたってわかんないよ。

それでいて、家を継ぐのは兄らしい。わたしは、どこかへ嫁いでいく前提の会話に飽き飽きした。結局うちにはいらないくせに、注文ばっかり多いじゃないか。

料理が作れないとお嫁に行けないよ。
掃除ができないとお嫁に行けないよ。
あぐらをかくのは女の子らしくないからよしなさい。
そんな服はのんちゃんには似合わないよ。
髪は長いほうが似合うんじゃない?
やっぱり黒髪が一番いいね。
女の子は背が低いほうが可愛いよ。
最近は女の子もちゃんと勉強しなくちゃね。
大学は県外に出たほうがいいよ。
もう名古屋帰っちゃうの?寂しくなるね。

打ち込みながら、涙で画面が見えなくなるような憎たらしいことばたち。

矛盾に満ちて、無責任で、「のんちゃんのために言ってるんだよ!」と一言添えればなんでも言っていいとのぼせている。そんな怒りを抱え続けて、それでも自分の大切なひとにかけられたことばは無下にできず、苦しかった。だいすきなひとたちを、まっすぐにだいすきでいられないのが悲しかった。

なんでも突っぱねてしまえる、いとこのお兄ちゃんたちが羨ましかった。学校のプールにベンチを投げ込んだとか、兄弟喧嘩で包丁を持ち出し血塗れで近所を歩いて警察沙汰になったとか。エレベーターで友達とジャンプして、閉じ込められてレスキューを呼んだこともあったな。

いいよね、そんな好き勝手してても可愛がってもらえて。いいじゃん、結局みんなに構ってもらえてるんだから。そんな可愛くない気持ちが、いつも胸いっぱいに占めていた。わたしが同じことをしても、みんなすきでいてくれるだろうか。

きっと、わたしじゃダメなんだろうなって思っていた。


お求めの履歴書じゃなくなった


振り返れば、何かが動いたのは高校2年の頃。2016年の1月初旬だった。

ある日突然、身体が起こせなくなったのだ。

いつも通りの寝不足で、いつもより少し頭が痛いだけだと思った。でも、その痛みは丸一年続いた。小学生の頃から頭痛持ちだったけれど、比じゃない。毎日のように頭痛薬を飲まないと耐えられない。夜も眠れない頭痛で、3つも4つも病院を回った。

やっとのことで頭痛外来なるものに辿り着き、市販薬を飲む頻度が増えすぎたことによる「薬物乱用性頭痛」と診断された頃。メンタルクリニックに毎週通って、睡眠導入剤と抗不安剤を飲んでいた。あとから、適応障害だったと告げられた。

それでも大学受験を見据える親は、わたしに予備校を薦めた。高校に通えなくても、予備校なら行けるときに行って勉強すればいいと。

正直、もう学びの楽しさなんてわからなくなっていた。大学に行ったって、今度は"良い"会社に入るために勉強しろと言われるのが目に見えている。こんな人生、何にも楽しくない。もうこんな生活無理だ。こころも身体もそう叫んでいた。

高卒認定を取得し、いざセンター試験の一週間前。わたしは、手持ちの薬を全部飲んだ。死にたいと思ったわけじゃない。ネットで調べて、200錠なんて量じゃ死ねないことは百も承知だった。


ただ、2週間ぐらい人生というものが休みにならないかなと思った。

『嫌われる勇気』に、こどもが自分を傷つけるのは親への復讐だと書いてあった。いま思えば、確かに復讐だったんだろう。こんな人生うんざりだって、わたしの気持ちに気づいてほしかった。

かくして、それは成功した。

わたしは、ずっと夢だった「海外留学」を全額奨学金で叶えられる、名も知れぬ大学に進学した。親は一浪して"良い"大学に再受験したほうがいいと言ったが、同じ生活をもう一年続けるなんて今度はほんとうに死んでしまいそうだった。

"良い"大学に行くはずだという期待を、ついに裏切ってやったという高揚感と、もう親の求める履歴書には戻れない深い深い罪悪感が付きまとうようになった。


遅れてきた反抗期


次の戦いは、就活だった。

そもそも、みんなでよーいどん!で同じ格好をして求職するのが気持ち悪いと感じていたわたしは、大学院進学しか目になかった。カモフラージュで大手英会話教室をいくつか受け、順調に選考に進みながら院進の準備を進めた。

そこで初めて、父と真正面からぶつかることになる。

「俺のメンツはどうすんだ」というようなことを言われたんだった気がする。言われたことはイマイチ覚えていないのが笑える。

自分の言ったことは、よく覚えてる。

ごはんのときしか一緒にいないのに、毎日たった2時間ばかでわたしの何がわかるの?ずっと話を聞く気がないのはそっちじゃん!

と大泣きしながら言い放ったのだ。

そこから、父のスタンスは少し変わったように思う。こうしなよああしなよが減り、あったとしてもこちらも「フーン」とスルーできるようになり、お互いに少しずつ大人になった。

親子関係が好転しはじめた頃、人生最大の壁にぶち当たる。


大学院で気づく皮膚の色


小さい頃から、間違いを指摘されるのが苦手だった。まあ、得意と言うひとはあんまりいないだろうと思う。特に英語の授業で、指名されて答えを述べると「違います」と言われるのが意味不明だった。

もうちょっと優しく言ってくれたらいいのに。そんな気持ちから、誤用訂正のなかで最も暗示的な「リキャスト」というフィードバックの効果を研究しはじめた。日本語教育においては、研究が進んでいるとは言えないテーマだった。

簡単に言うと、「明日は学校行きます」という発話に対し、「日本語間違ってます、『を』じゃなくて『に』です」なんて指摘するんじゃなくて、「明日は学校行くんですね〜」と自然に直して返すのがリキャストだ。

これに学習効果があると証明されれば、わたしのように傷つく学習者が減る。心理的ストレスが減ればアウトプットが増えて、習得促進に繋がるはず。なんだか青いけど、有意義な研究をしているんだという自負があった。

大学院では、院生であってもひとりの研究者として扱ってもらえる。何冊も本を出している有名な教授でも、フラットに意見交換できるのが楽しくてたまらなかった。ずっとこういう場が欲しかった!と毎日がワクワクに満ちていた。

当たり前のように「このまま大学で働きたい」と思うようになり、当たり前のように博士後期課程に進学すると決めた。

そんななか、ふと、気づいたのだ。

なんで直さなきゃいけないんだっけ?

わたしは、ことばの何を大切にしてるんだっけ?


「明日学校を行きます」と友達に言われて、
(日本語間違ってるな)と思って
「明日学校に行くんですね〜」
と返すのがわたしの目指す日本語教育なんだっけ?

明日学校に行くことはわかるじゃん。
なんで訂正しなきゃいけないんだっけ?

日本語を学んで日本の大学に進みたい、日本の会社に入りたいと言う学習者が、「正しい日本語」を身につけることで恥ずかしい思いをしなくて済む、いじめられずに済むとか言うけど。そんなの、ことばの形式だけをとらえて恥ずかしいことだと思ったり、いじめに繋がったりする受け入れ側のほうが、よっぽど問題なんじゃない?

"日本人"のルールに合わせようとしていた自分の行動に虫唾が走った。もう、この研究は続けられないと思った。それでもこの研究を通しての気づきを残しておかなければ、また次の研究者が同じところに引っかかることになるかもしれない。毎日泣きながら書き切って、提出して、燃え尽きた。

ただひとつの真実が存在すると考える「基礎づけ主義」と、真実はひとによって異なると考える「反基礎づけ主義」があります。研究によって着替えられる服のようなものじゃない。取っ替え引っ替えなんてできない、皮膚のようなものなんです。生きづらくなるかもしれないけど、はやく気づいてよかった。のぞみさんも、きっとこの価値観に"居場所感"があると思いますよ。

支えてくれた教授より

「正しい」ものがただひとつある、という考え方がいやだったんだ。答えはひとによって違う、それでいい。そう気づけたわたしは、そこから明らかに輪郭を帯びた。自分の皮膚の色に気づき、それにはっきりと意識を向けて生きていこうと思えた。


コーチングとの出会い、戦いの手放し


博士課程に落ち、再チャレンジを決め、「書く」を仕事にしながら、地域日本語教室のボランティアとオンライン日本語スクールのブログ記事制作に邁進した2022年。

答えは与えるものじゃない。
それぞれのなかに答えがある。
ことばにおいて大切なのは、形じゃなくて中身。
わたしは、言いたいことの中身をやりとりしていきたい。

そうはっきりわたしのなかにあるのに、実際のボランティア教室と日本語スクールではなかなか伝わらなかった。どれだけ理解しあおうとしても、「あなたの日本語は間違いが多いから、ちゃんと先生に直してもらわないとダメね」なんて声が常に聞こえてくるのは苦しかった。毎日が戦いで、こころがすり減っていた。

この頃、母に「最近死にたいと思ってしまうのがつらい、どうしよう」と大泣きしながら伝えたことがあった。兄が自死したというのに、わたしまでそんなことを言い出すのは母も苦しかっただろうと思う。

そのときの母は、ほとんどなにも言わなかった。うん、うん、と相槌を打って、ひたすら聴いてくれた。いま思うとあれは受容的傾聴だったんだろう。なんで何も意見を言ってくれないんだろう、と思いながらも、するするとわたしのなかで勝手に何かが解けていくのを感じていた。その頃既に、コーチング自体には出会っていたのかもしれない。

2023年2月、キャリアスクールSHElikesに入会した。「コーチング」という名に初めて触れ、その説明文だけで恋に落ち、痛烈に印象に残った。コーチ修行中だった梓さんのコーチングを受け、コーチングスクールに入りたいとすぐに決意する。早速THECOACHに入会し、4月に基礎コース、5月に応用Aコース、6月に応用Bコース、7月から12月にインテグレーションコースと進む。

すごいスピード感だね!と言われることが多いが、わたしのなかではやっと、やっとだ。ようやく辿り着けた。小学生の頃から、すべてがコーチングにつながっていた。すべてが、今日この日、いまこの瞬間のためにあったと確信しているわたしがいる。

基礎コースの一日目、わたしがこれまで「戦い続けなければいけない」と思っていた自分の価値観は、コーチングの世界なら常に土台として当たり前に受け容れられていることを知る。

問いを持ったひとは生き延びたが、
答えを持ったひとは滅んだ

やっぱりそうだ、と思った。初めて触れたことばだったのに、どこか懐かしいような、ほっとするような、不思議な感覚がした。きっと、ずっとこれがわたしのなかにあったんだ。

いままでずっと、苦しい世界だと感じてきた。つらい、居場所がない、どこに行っても孤独感がある、どうしても不安が拭えない、そんな世界に一筋の光が差した。それがコーチングだった。

わたしがこれまで大切に抱えてきた想い、願いをひと繋ぎにしてくれたのがコーチングだ。散らばっていた星たち、近くで見たら息苦しくてたまらなくて、いまでも思い出すと涙が出るような星たちも、遠くから見たらこんなにも美しい。ひとつひとつが意味をなして、星座をかたちづくる。

このnoteだって、泣きながら書いていたのにいまはもうすっかり涙が引いた。負の遺産なんて言わないで、黒歴史なんて言わないでさ、ほんとは全部綺麗なんだよ。わたしだけじゃない、みんなそうなんだ。


ごめんねとありがとうを


今年は母の日にカーネーションをあげて、父の日に本をあげた。ふたりとも、すごく嬉しそうだった。納得感のある「わたし」を生きていたら、ふたりもきっと幸せなんじゃないかと思うようになった。

いままでは、どこかで「わたし」として生きることを諦めている自分がいた。高2の頃も院進のときも、そして修士研究のときも、きっといのちが叫んだんだ。「これはわたしじゃない!」って。

いままでごめんね。こっちが諦めてた。

いままでありがとう。諦めないでいてくれて。

お父さん、お母さん、今度はわたしちゃんと幸せになるよ。
幸せになることを諦めない。
願いに手を伸ばすことを、想いを口に出すことを諦めない。



満天の空に、願いをかける。



これからもずっと、「わたし」を生きていく。


ことばを学ぶ修士卒、コーチングとブランディングをナリワイにしています。いただいたサポートは、ナリワイをアップデートする学びや、毎日noteを心地よく書き続けるための暮らしに投資します。最後まで読んでくださってありがとうございます💌