『水晶宮としての世界』、たぶん中断。
『水晶宮としての世界』ですが、読み終わらない可能性が濃厚になりました。前回の記事で私は、第一部で大航海時代、第二部でGPSなどの情報化社会を扱うらしい……と書きましたが、スミマセン、何で私はそんな思い込みをしたんだか?? 挫折したのは第三十四節ですが、いままでのところ、私の思い込みとは全然異なる展開が続いているように思います。(本記事は、この訂正がいちばんの目的です。)
もともと第一部のときから、ぽつんぽつんと話題が飛んだり・つながったりして、一本調子に読める本ではなかったですが、第二部に来てまた一層、論点がよく分からなくなりました。……まあ、読んでりゃそのうちつながるかな、とぼんやり読み進めているうちに問題の第三十四節に至り、アメリカで起きた9・11を始めとするテロが取り上げられるのを読んで、ちょっとその一方的な書かれ方に引っ掛かってというかシラケてしまって、読み続けるのが億劫になりました。
もともと、節ごとのつながりは有るような・無いようななので、節が変われば内容も変わる可能性は高いですから、それを期待して再開するかもしれませんし、しないかもしれません。まあでも多分、読了しても全体の感想は書かないでしょうから、本書関連の記事はこれで終わりです。
私がシラケた理由は単純で、テロを〈暴力の始め〉と看做したことです。
テロという行為・戦術自体が〈人道的〉と言えないのはもちろん言うまでもないことですが、でもそれを言うなら何なら人道的なのだ?という話でもあって、まあ、でもともかく、テロに至る経緯を〈地球儀が完成して未知の土地がなくなったからには冒険は終了だ、歴史はここにて終わったのだ〉でチャラにしたらイカンでしょ……。久しぶりに、〈ゴメンで済んだら警察要らん〉の言葉を思い出しました。
著者的には、自身の哲学として、ヨーロッパが世界にしでかした暴力・略奪・破壊にさしあたり向き合って一段落付けたことになっているのか知れませんが、トラウマとかPTSDといった概念を持ち出すまでもなく、踏みにじられ・混乱させられたことへの恨みはそう簡単にチャラにできるものではないし、私が本や映像で見聞きする限り、多くの現場ではいまだに踏みにじられている印象が強い。どっぷり利害にまみれた支援・仲裁、という形で。
そういった振舞いに対する猛烈な怒りと反発、にもかかわらずの圧倒的な無力、という視点を欠いたまま〈歴史〉を語られてもなあ……と、うんざりしてきました。
たまたま録画していたNHK「3か月でマスターする世界史」の再放送を、これまたたまたまの巡り合わせで『水晶宮』第二部を読むのと並行して見ていると、第7回8回あたりでモンゴルを扱っていました。本番組は、3か月かけてアジアの視点で世界史を読み直そう、みたいな構成です。
ユーラシア大陸の広範囲を支配したモンゴル(元)は陸路・海路を整備して、寛容な支配に基づく世界システムを作り、栄えました。政治の腐敗とペストによる混乱でやがて帝国は解体されますが、分裂したその先々で、〈モンゴル式〉のシステム・寛容さで広域を支配・運営する後継国が複数現われます。
そのうちの一つ、オスマン帝国の影響で西洋のルネサンスは興ると説明されますが、もちろん、大航海時代はそれより後の時代です。船やら美術やら羅針盤やら、そんな技術は学んでおいて、肝心の〈寛容〉は学んでないんかい、と、テレビに向かってひとりボヤく私……。
もう『水晶宮』には戻らずに、NHKのテキスト読み始めるほうが精神衛生上、良いかもしれません。前回の記事でスローターダイクさんと岸田秀さんを重ね合わせましたが、とんでもない早とちりでした。だって、〈過ぎ去りし過去を勝手にチャラにする岸田さん〉なんて、想像もできませんもの。はあ。
『水晶宮としての世界 資本とグローバル化の哲学のために』
ペーター・スローターダイク著 高田珠樹訳
青土社 2024年