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2025年元日/父が脳梗塞で倒れた/誕生日

2025年はテーマを決めてとかじゃなく、初心に立ち返って日記のようなものを書こうと思ってた。思ってたんだけど、あっという間に1月が半分過ぎていた。大丈夫そ?あっという間すぎない?

書き出してからもなかなか時間が取れなかったら、もう1月終わりそう泣


2025年元日 家族が揃った日

私には6歳上の姉がいて、姉には娘と息子がいる。娘、つまり私の姪っ子にも娘がいる。コロナだったり、私たち夫婦が3年間島に住んでいたりでこの家族が揃うことはほとんどなかったんだけど、今年やっと全員集合した。祖父母はもう亡くなっているので、私たち夫婦、私の両親、姉、姪っ子家族3名、甥っ子とその彼女。久しぶりの大所帯となり、母はテンションが高くいつもに増して多弁で、いつもに増して空気を読めていなかった。我が家は私と姉が成人してから、母と三人でお年賀を渡し合う習慣がある。今年の母からのお年賀はチョコレートだった。食物アレルギーで食に制限があり、成分や製造工場が分からないとお菓子が食べられない私にバラの形のチョコレートの花束を差し出す母。「これ、包装とか残ってないの?これだと分からないんだけど」と聞くと「そうなのよ。何も分からないのよ」と答える母。何秒かの沈黙が流れ姪っ子が「よくそれで買ってきたね」と言った。うん。おばちゃんもそう思うわ。それに対して母、何の疑問も抱いていないようでせっせと餅を焼いていた。チョコレートのバラは、人工的な水色だった。こう言ってはなんだが、決して美味しそうではなかった。私の分は、甥っ子の彼女に「お近づきの印に・・・」と渡した。押し付けてごめんね彼女さん。

姪っ子の娘ちゃんは、2歳〜3歳くらいでこの正月が生誕後初めましてだった。私が実家に到着した時は、初詣に行っていて不在で神社から歩いて帰る道中「のぞみちゃん いるかな🎶」と言い「のぞみちゃん」との初対面を楽しみにしていたそうだ。我が家は家族間でも「さん」をつけて呼ばれるんだけど、姪っ子とは17しか歳が離れていないこともあってか姪っ子は私のことを「のぞみちゃん」と呼ぶ。で、姪っ子の娘ちゃんは「のぞみちゃんに会えるよ」と聞かされている。神社からの道中で娘ちゃんの中で「のぞみちゃん」のイメージが作り上げられた。そして、帰宅後「のぞみちゃんだよ」と紹介された私を見て娘ちゃんは後づさりして、ママの足にしがみつき隠れた。・・・・・ごめん、きっとイメージは自分と同じくらいの子だったよね。おばちゃんでごめん・・・・。切ない初対面だった。

父が倒れた

その連絡が来たのは、夕方だった。父が倒れたのは朝だったが、緊急手術などが全て終わった後、母から「父 朝倒れる 脳梗塞 ○○病院緊急手術 入院 今麻酔で寝てる」と電報みたいなLINEが送られてきた。娘たちに心配をかけまいと思ったのか、本当に精神的に余裕がなかったのか、全て終わってから連絡してくるなんて最悪の場合「父 倒れる 手術のかいなく」みたいな電報LINEが送られてきていたのかと思うとゾッとした。母にLINEしても電報しか返ってこないので姉に連絡した。姉は緊急連絡先に名前を書かせてほしいということで午前中には母から聞かされていたらしい。おい。教えてくれよ。私にも。

父は、もともと元気そうだったが生活習慣病の持病があり、元気そうだっただけで元気ではなかった。それでも、好きなように暮らしていて娘の言うことを聞くような人ではないので調子悪くても自分が良いように暮らしてくれたらそれでいいやと思って気にかけつつも放っておいていた。

父の脳は、左脳の大部分が梗塞してしまっていた。CT画像を見せてもらったけど、右とは比にならないくらい左の脳は広範囲に黒くなってしまっていた。梗塞を起こすと脳は浮腫むらしく、広範囲に梗塞している父の左脳は全体が浮腫み、脳幹を押しつぶす危険があると。そうなると、植物状態かもしくは死にいたるという説明だった。若ければ、頭蓋骨をあけ外に圧を逃すという方法もあるそうだが、75の父には負担も大きく、それをしてもしなくても今のままでは植物状態になる可能性が高いですーと。家族で話し合い、薬でむくみを抑える治療を選択した。それから、父の意思で胃瘻はしない、延命もしないと言うことが母から医師に伝えられた。夢の中にいるような気持ちだった。意味がわからなかった。

脳のむくみのピークは脳梗塞を起こしてから1週間から10日と言われた。そのピークを越えると言うことがまず最初の目標になった。家族は1週間、毎日父を見舞い声をかけ続けた。病院のソーシャルワーカーとも面談をして、急性期の病院の後は、療養病院に移るということで話がまとまった。そのうちに麻酔の量を減らし、声に反応したり、たんの吸引が辛くて嫌な顔をするようになり始めた。とても良い兆しで、でも、意識が戻っていないのは明らかで父の容体のように私の心も不安定な時間を過ごした。

父が倒れてから10日目。見舞いに行った母から父の写真が送られてきた。父は、車椅子に座っていた。突然の出来事。車椅子に座ってる。まじか。生死を彷徨い、1週間以上は眠ったままだった人が10日目に車椅子に座ってた。病院の皆さんにはもう本当に感謝しかない。父を生かしてくれてありがとうございます。父の頑張りを支え続けてくれてありがとうございます。父は、起きるようになった。でも、発語はない。こちらの声には反応するけど、こちらが言っていることを理解しているような感じはしない。そもそも状況すらわかっているのか、自分が誰だかわかっているのかも、こちらから見たら何もわからない。でも、生きている。

45歳になってしまった

誕生日でした。歳をとることに抵抗はないし、老けていく自分を嫌な気持ちに思うこともない。でも、なってしまったーと思っている。私たちは不妊治療をしていて、授からなかった。高度生殖医療をやめて1年経った。でも、不妊治療のための漢方を毎日煎じて飲んで、自分たちなりに授かるタイミングを待ってきた。それを続けるのも45までかなと自分では思っていた。漢方は毎月6万近くかかる。それをずっとは続けられないなと思ってる。


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なつき希
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